☆いい女☆で行こう!

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遊ぶ魂、サカる格2

才もグランプリがメインになったように、またソーシャルゲームも「ガチャ」がメインになったように、そして少年漫画もドスケベ女体の表示がメインになったように、すべてのものに競技制とギャンブル性と刺激性が組み込まれていった。
それは、遊ぶことができなくなったからだ、遊べなくなると人は刺激と興奮で己をコスるしか活力を得られなくなる/「遊ぶ」には、一般的に言って「余裕」が必要だ、すべての遊びの喪失は、「それどころじゃない」という実感から起こってくる。
だが一方で、「遊ぶ」ということを失ってしまうと、ずっと先に「何のためにこれまで生きてきたのかわからない」という行き詰まりにぶつかってしまう/気づいたときには、己の魂とはまったくつながっていない、はるか彼方まで行ってしまっているものだ、それはそれで取り返しがつかないということになってしまう。
このことについて、僕は執拗に、「遊ぶことがメインで、遊ぶために生きるのだ」ということを唱えていきたい、それは僕が正しいからではなく、僕が受け持った役割だからだ、僕まで含めて全員が「それどころじゃない」となるわけにはいかない、それではけっきょく本来の魂でないものが勝利したことになってしまう。

また、僕には狡猾な考えもあって、遊ぶことが本分だと見切った者にこそ、あるていど幸運のバックアップがあるのではないかと思う算段もあるのだ、遊ぶということはそこまで向こう見ずなことではない。
また単純に言って、日本が製造業で勝利できない経済状況の中、これからわれわれは異民族も含めた同居のような暮らしをしてゆかねばならない見込みだが、そこで同居するのが、真に愉快で真に大切な、真に愛し合える誰か同士なら、その環境は一転、かけがえなく豊かな暮らしを得たということになるではないか。
われわれにとって真の敗北とは、魂の触れ合わない者たちが、ただ生きるためだけに同じ檻の中に囲われ、同じ檻の中だからこそ縄張りをもたねばならず、なるべく孤立した個人として生きようとしたところ、けっきょくコストが追い付かずまともな暮らしもさせてもらえなかったという結末だ/われわれは、魂の触れ合わない同士においては、孤立しあって無関係に生きていけばよいが、そうした孤立した暮らしの形成には非常なコストが掛かるのだ、そしてその環境の構築のみならず、そこから寂しさを慰めるためのコストも膨大に発生することを前もって見積もっていなくてはならない。
比較して、僕が思うところの最高の勝ち筋は、「魂が触れ合って遊んでいたらたくさん幸運があってみんなでワイワイやっているうちに逃げ切ってしまった」という結末だ、このことの実現には非常な困難が予想されるが、成立に多大なコストが掛かるというわけではない、むしろ魂で遊ぶことにハマっているうちはコストが削減されるだろう、魂には課金できないからだ。

生存本能が「それどころじゃない」と言う、それに対抗する遊びの魂は、「永遠にこれでいいだろ」を見つける。

だから遊びというのも、遊興ではないのだ、そこにいる全員が「永遠にこれでいいだろ」に到達できるか? それはそんなに簡単なことではなく、けれどもこのことが見つからないままでは、自分はけっきょく何のために生きていくのかわからないし、魂なんてものがもし本当にあったら、己の魂がやがてどこへいくものかわからず不安でたまらない。
僕が敷地だけ広いおんぼろ小屋に住んだとして、その玄関先に雑魚寝するということが、2LDKの独り暮らしよりはるかにイヤか? そんなことはなく、「ぜったいにその玄関先のほうがいい」とこぞって跳ねる人がすでにうじゃうじゃいる、それは経済的に有利なポテンシャルを秘めているということだ、むしろそのことへの基本を手に入れたほうが、この先々で生きていくのに有利だと見立てて僕はプランを練っている、つまり究極的には生存本能より遊ぶ魂のほうが幸運も含めて「生きるのに有利」という仮説に基づいている、もしこの仮説がアタリだった場合はわれわれで大いに笑おうじゃないか。

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