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「かわいそう」という感情について2
「かわいそう」という感情は、実は強烈な危険を孕んでいるということを、先日の記事で話した。
「かわいそう」という感情は、おおむね血と苦しみに関連して生じ、その痛みゆえに魂を否定し、魂をバラバラにする作用がある/そして魂が粉砕されたら、あとはもう生存本能と血の勝ちだ、われわれの霊魂は敗者となる。
「かわいそう」という感情は、なくてはならないし、なかったら単純に「人でなし」なのだが、それが「人でなし」であるからこそ、「かわいそう」という感情の完全勝利は、われわれを「ヒューマニズム」に閉じ込めるということでもある。
われわれは人間なので、ヒューマニズムもなければ話にならないが、ヒューマニズムはあくまで人の感情であって、カミサマの感情ではない、この道理を感情のあまりに違(たが)えると、われわれはカミサマから切り離され、思いがけず「呪いと悪霊の勝利」というバッドエンドに行き着く、何しろヒューマニズムは強烈な「かわいそう」のカタマリで、一方でカミサマは「冗談」だというのだから、われわれがこの「かわいそう」からのヒューマニズム決着から逃れるのはとても困難なことなのだ/だからこそ繰り返し言われねばならない、<<「かわいそう」という感情が物事をハッピーエンドに導くことはない>>。

そして、言い足しておかねばならないのはこのことだ、その「かわいそう」という人間感情が、他者に向くのならばまだしも、半数以上の場合はその感情がひたすら自分に向くと覚悟せねばならない。
単純化して言えば、この「かわいそう主義」はいくらでも、やがての「わたし・かわいそう主義」を内包するのだ、戦災孤児を「かわいそう」と激し、チーターに食われるインパラを「かわいそう」と激し、膝を悪くして孤独な日々を過ごす母親を「かわいそう」と激すると、その次はおおむね老いて寂れゆく自分自身を「かわいそう」と激するようになってしまう。
そして、それらがおおむね「かわいそう」ということは、判断としても感情としても間違ってはいないのだが、問題は、そのとき「かわいそう主義」の徒は、<<「かわいそう」という感情を正義の頂点に据えてしまっている>>ということだ、こうなるともう、この「かわいそう」という感情より上位の判断は一切成り立たなくなってしまう。
「かわいそう」という激しい感情は、かくも巧妙に、われわれの魂を粉砕しにきて、するりと最上の正義の座に納まる、しかもタチが悪いことに、この「かわいそう」という感情は、即効性でカネになるのだ/だから完全に容赦のない言い方をすると、単純な悪知恵として、世界中から「かわいそう」の極致をたくさん見つけてくれば、それだけで募金詐欺ができるし、実際にそのようなことをしている悪徳業者だって少なからず存在するだろう(それはしばしば、悪徳であっても不法ではない)。

かわいそう主義は、ヒューマニズムの錯覚を経て、しばしば「わたし・かわいそう主義」に転じ、ときに苛烈な「富の戦争」にまで行き着く。

ここに、このとおりデタラメな僕がいて、仮に、ここに大マジで「かわいそう」な人がいたとしよう、そのとき僕が「かわいそう」な人を怨んで攻撃するというようなことは動機としてありえないが、「かわいそう」な人が僕を怨んで攻撃してくることはありえる/そして「わたし・かわいそう」の動機からその攻撃が生じてきた場合、いかなる事情があっても攻撃者のほうが内心で正義であり、攻撃される僕の側は悪に決定される、何しろ「かわいそう」より上位の正義はないのだから、「かわいそうでない」僕の側に正義が認められることは構造上ない。
貧困から店先のパンを盗って走って逃げた少年が、転倒して脚をケガした場合、必要なのは「かわいそう」という感情じゃない、カネが必要な場合はそうしたものを「かわいそう特集」として蒐集していくのが良策だが/パンドロボーの少年に与えねばならないのは、「かわいそう」という感情じゃない、パンと罰だ、そして治療と学門だ、それをかわいそうなシーンに仕立てるのはバッドエンドへの手続きであり、ハッピーエンドに向かうためにはすべてを冗談のようなシーンにしてやらねばならない。
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