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男女関係とクリエイティビティ2

多くの人が、幼いうちからハードシコリティのオナニーを重ねてきているので、多くの人はシコリティについてソムリエじみた造詣を持っている(たとえヴァージンの女の子であってもシコリティについてはソムリエ的素養を得ている)、そしてこの造詣の深きソムリエを「満足」させることはたいへん困難で、よって「シコ交」というのも基本的に行為のあとに「不満」しか残さない。
2.シコリティというのは単純な性欲とは異なり、多岐に細分化されていくので、それぞれのシコリティが本心から適合するようにシコ交を営むのは事実上困難だ(常に何かしらの、意図的なプレイに合意し続けざるを得ず、このことは双方に負担を強い続ける)。
3.現代のわれわれは、貧困から生存本能に脅(おびや)かしを受けており、脅かしを受けた生存本能は、生殖衝動を苛烈化させるという性質がある(滅びゆく遺伝子を保存しようと本能がはたらくため)、よってシコ交への衝動も、単なる悪趣味というのではなく苛烈で暴力的な衝動に拡大される。
これら1〜3の性質が重なるため、セクシャリティを失ったわれわれのシコリティは、「シコリティに飢えた鬼」となって、血涙を流しながら、シコ交の相手を捜し求めることになる/性交からシコ交への転換はこのようにわれわれに狂気を強いていく仕組みがある。

4.現代における「セクハラ」の問題も、本質的にはセクシャルな問題ではなく、一部の男性は本当に異性をヘテロシコリアルの対象としか見ていないので、旧来の「もう、えっち!」という冗談とは性質が異なる、「シコリティに飢えた鬼」が血涙を流しながら、表面上だけ善人のふうで寄ってくることが現代のセクハラの恐怖であり、その恐怖は性というより狂気に由来する。
5.一方で女性の側も、異性をヘテロシコリアルの対象にしか見られていない実情があり、この「飢えた鬼」の女性がセクハラに対抗するフェミニズムの勢力に流入すると、唱えるべき正当性の背後に「グッドシコリティ男性を希求する」というノイズが混じりはじめる/そうなると男女は互いに水面下で「グッドシコリティが認められない」と罵り合うのみとなり、だがこの不毛の争いは餓鬼の血涙が染みて呪われた狂気の戦いとなる(呪縛が掛かるのでもう脱け出せない)。
6.かつて、「恋愛」には或る種の尊厳と聖性が認められて(信じられて)いたので、セクハラとフェミズムの周辺で闘争する精神に向けては、無自覚のうちに聖戦と高貴さを自負するようになる、その中で己がシコ交の狂気に駆られていると疑い始める者はいない、しかし実態としての闘争には狂気に由来する底深い恐怖があるので、その恐怖の所以は必ず先方にあるとみなし、双方は互いを「悪魔」のたぐいに見立てるようになる。
これら4〜6の状況が重なっているため、われわれは「男女関係」「恋愛」というと、それを甘やかなものと捉えるよりは、第一に最大の「恐怖」として捉える/特に現今の情勢下(戦況として女性のほうが前線を押し進めている)、男性にとって女性と恋愛関係や男女関係を持つことは、第一のこころとして「恐怖」だ、ロマンスなどは遠く聞かされた概念でしかなく、実際に得られる感興としては「恐怖」しかない。

恐怖から逃れるために、クリエイティビティを放棄する。

そういう仕組みがある/われわれが、己の魂からのクリエイティビティを開示しないかぎり、われわれの魂が攻撃されることはない、攻撃されないのであればしょせん恐怖は対岸のことでしかないし、あとは社会的・具体的なことはなるべく司法に守ってもらえば、われわれはついに恐怖のすべてを対岸に押しやることができる。
まったく誇張ではなく、現代の男性にとって、女性とのデートは「楽しみ」などではなく第一に「恐怖」だ、それは現代の女性にとっては男性が存在するだけで「安心」どころか「恐怖」だということに重なっている/われわれは互いにクリエイティビティを発揮すれば、互いに誰かの魂と出会うのかもしれないのだが、<<だからこそ>>クリエイティビティを放棄するのだ、恐怖を避ける最善かつ最も賢明な判断として/われわれは自分たちがそうした恐怖の世を作り出したことをこころの底で知っている。

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