☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< WS報告024(2)/血も凍るようなフィクションをやろうぜ | TOP | 物理的に倒れ伏すという「礼拝」が起こる仕組み >>
オードリーヘップバーンに掛けられないなら技じゃねえよ

ーむ、どうも腹が立ってきたな、やっぱり正しいことはあるていど大きく表示しておかないと、果たすべき義務を履行していないことになるみたいだ。
たとえば合気道では基本の技を、一教とか二教とか言うけれども、どこの道場でも当然、屈強な兄さんがトリャーと取り押さえをしたり、エイッと投げを掛けたりしている、それをもって護身術だと言うのだけれども、護身術といってもつまり、そりゃ「相手をやっつける技」だ、たとえ相手がケガを負わなくても、それはやはり相手をやっつけている技だ/僕はいかなる理由があれ、相手をやっつけることは不徳のたぐいであり、たいへん気分の悪いものだと感じている、誰かをやっつけた時点で、根本的には自分も負けのコースに入るのだと思う、思うというよりは確信する。
合気道の開祖、植芝盛平さんと、その弟子である塩田剛三さんにおかれては、弟子にいかなる技を掛けたとしても、弟子を「やっつけて」はいない、なぜなら技に掛けられた弟子はギブアップを示すタップ(「参った」のサイン)を出していないからだ、植芝さんと塩田さんの技は、掛けられた相手がウオッとか「ぬあっ!!??」とかなったりするが、掛けられた側がそのあとイケイケかつ「やさしく」なっている/僕は、合気道などに関しては、完全なズブのシロウトだが(何しろ一秒も習ったことがない)、それとはまったく関係のないこととして、「人ってそんなに甘くない」と断言したい、たとえ相手にケガをさせなかったとしても、一度でも誰かを「やっつけた」なら、その人はその先、永遠に敵であって、ずっと呪いあう関係になる、相手にケガをさせなかったことなど何の言い分にもならない、<<誰かをギブアップさせるとか「仕留める」とかいうことは、兵士でないかぎり模擬にも決してやるべきではない>>、ギブアップさせた(負かした)ということは殺したのと同じだ。
護身術だといい、屈強な兄さん同士でトリャーとやりあい、相手が抵抗できない形にして「参った」をさせあっているが、本当にその技は、うら若きたおやかなオードリーヘップバーンにも掛けられる技なのか? もしそんな可憐に微笑む麗しき花のような女性のやさしい細腕には掛けられないというのなら、それはけっきょく「ケガはさせない暴力」ってことじゃないか/われわれは本当に、うら若きオードリーヘップバーンが、肩関節と肘関節を固定されて締め上げられ、「参った」とタップするところを見ていられるのだろうか、そこには「なぜそんな非道な暴力をやるのだ」という悲嘆が湧き起こるのではないのか。

僕には何の資格も立場もないので、与太話として聞き流してもらうけれども、一教とか二教とかいうのは、護身の技なんかじゃない、<<掛けられた相手の身にカミサマを入れる技>>だ、だから何度も技を掛けられると、掛けられた相手は次第に「やさしく」なっていく、身が軽くなり、こころがやさしくなっていくのだ、人為では獲得しえないナゾの精神が「あれ? 何これ?」と得られてくる、だからこのことをかつては武産合気と呼んだ/護身術などではまったくないのだ、相手をやっつける技などではまったくない、相手にカミサマを入れる技だ、この誤解はまったく正反対を向いているじゃないか、正反対ってのはさすがにヤバくないか。
何の資格もない僕から、たいへん不遜に、この与太話を主張しておきたい、われわれの身の内には、「人を攻撃する機能」があるのだ、ふだんはそんなものが決して発現しないよう、入念に管理してコントロールしているが、たとえ完全に管理しきれたとしても、その管理の下にやはりその機能は「ある」のだ、そしてこの「人を攻撃する機能」が、存在自体おそろしくて、この機能が存在するうちは、人はどうやっても救われないのだ/そこで身の内にカミサマを宿し、カミサマにその「人を攻撃する機能」を消し去ってもらうというのが営為の本質だ、それに比べると「護身術」というのは何だ、人には人を攻撃するという機能があるということについて、初めから全面的に屈服しているのが根本のスタイル(文脈)じゃないか、僕は合気道に何の関係も持たない一市民だが、合気道に携わる人は、合気道というものをそんな護身術というような、「自分だけ被害を受けず合法に善人として生き残ろう」というつまらないものに定義してよいのか。
そうじゃないだろう、本当は、<<暴漢になど決してなりたくないわれわれの身の内から、暴漢になりうる潜在的な機能そのものをカミサマによって消し去ってもらう>>という営みだ/塩田剛三が後世に残そうとした技の正体は、「人を攻撃するという機能が "空転" して、元あった攻撃機能のエネルギーが和合のエネルギーに転じてしまう(笑い、むつみ合うエネルギーに転じてしまう)」ということだ、決して単なる自己防衛の技なんかじゃない。
そして植芝盛平の技は、単に人の攻撃機能を空転させるのみならず、その身に人為以上の何かの "存在" を宿す技だった/だからこれらの技は、掛けられた側が救われた心地でつい「ありがとうございます」と言ってしまうという徳性がある、生まれて初めて人と和合するエネルギーの根源を得、さらにはわれわれに「人以上の何か」を見いだす直接の体験と開眼を与えてくれるのだ、そりゃうれしくなって何度も技に掛けられようとするし、技に掛けられて「参った」なんてギブアップはしない、いっそ永遠に技に掛けられていたいと望むものだ(そして言うまでもないが、一教にせよ二教にせよ、極められた関節が痛いなんてことは一ミリもない、だからうら若きオードリーヘップバーンに掛けても平気だ、そもそも痛くないとかいうレベルの話ではなく、いっそ「自分で床に座るよりもラクに地面に伏せることになる」と感じられるのが本来の技だ、なぜそんなにラクなのかは理屈の上では不明で、だからこそ武産の存在を前提にせねば説明がつかないというのがそもそもの原理だ)。

武の中に、技の形をした身の「投地」作法があり、攻撃のカルマの持ち主が、師にすがって攻撃行為のエネルギーを礼拝行為のエネルギーに転じさせてもらうのが営為の本質だ。

われわれの身の内には、煩悩やカルマや因果があって、煩悩三毒というからには、身の内にどうしても毒ガスが溜まっているのだが、植芝エンジンにすがると、自分の毒ガスが燃焼して礼拝動作の挙動エネルギーに変わるということ、そうしたら毒ガスも減らせる上に光まで得られるのだから、こんなエコな完全解決は他にないぞということで、「ありがとうございます」となるのだ、それのどこが護身術なのか、護身が重要なテーマとして考えられていたのはあくまで歩兵の戦争と植民地政策とゲリラ戦が身近だった帝国主義時代の政治状況に関連してのことだった、だから有事には護身にも使えるというだけで、技の主眼が護身にあるわけではまったくない/相手の攻撃力を利用するというのは、相手の毒水がなぜか笑いの酒に変わるということであり、相手の毒水を相手にぶっかけ返して自業自得にさせてやるということではない
自分が相手をやっつけると、相手は「参った」となるのだが、そうして相手を「やっつける」ということが、そもそもおぞましいのだということに、なぜ気づかないのか、自分を攻撃してきた奴など「参った」になればいいというのことなのか、そんな他人の自業自得ぶりの上にふんぞり返ってほくそ笑むのが、われわれの信じうる聖なる道か/つまるところ、「やっつけたら気持ちイイ」のか? もしそうだとすると、それは暴漢と同じ穴のムジナじゃないか、暴漢をケガなくやっつけて「護身術」だなどと、バカなことを言っていてはいけない、もしわれわれが聖なる能力を持ちうるとしたら、それは己と暴漢を同じ身分として、暴漢にも共にカミサマの前で礼拝させてやることだ、「やっつけたら気持ちイイ」なんて性根の腐った元いじめられっこじゃないんだからさ。

正しく見ないとな | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |