☆いい女☆で行こう!

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物理的に倒れ伏すという「礼拝」が起こる仕組み

るほどなあ、つまり、やはり「礼拝」には一定の効果があるのだ。
「効果」というといかにもさもしい感じがするが、まあ「作用」があるわけで、その作用の根源はカミサマなのか何なのか、単に観測できないルートから作用があるので、それを聖霊とかカミサマとかホトケサマとか天とか菩薩とか言うのだろう、その作用ルートが「観測」できないのは、単にわれわれの観測能力が低いからであって、それだけわれわれがアホで無能なのだからしゃーない/さっさと村田製作所が観測センサーを開発できないのが悪い。
われわれは、高所から飛び降りると死ぬので、「重力」等は観測できるのだけれどね……何しろ顕微鏡というアイテムがなければ、微生物も観測できないのがわれわれだ、素粒子うんぬんを観測するのにさえ、CERNというような大がかりの装置を必要とする、あげくにわれわれはアホなので、観測できないものは「ない」と決めたがり、逆に「ある」と説明しようとさえする/観測できないものを「ある」と説明できるわけがあるかよ、問題はそれが「ある」か「ない」かの問題ではなく、「たとえAそのものは観測できなくても、Aからの作用はあるかもしれない」ということだ、仮にわれわれが視力を失ったら、太陽光はもう見えなくなるわけだが、見えなくても作用はあるので、「この世界って、昼と夜があるんじゃね?」ということは言い得るだろう、「だって、何かあたたかいものが当たる時間帯と、それがまったく当たらない時間帯があるし、そのあたたかいものの当たる方向って時間と共に移動しない?」ということで。
とにかく、僕としては経験上、見てきたこともそうだし、己が体験してきたこともそうだが、「礼拝」というのは一定の作用と効果が本当にあるのだ、ただしわれわれが「なるほど」といって、安易に礼拝の旅に出ても、何の効果も得られず、ただ旅費だけが嵩むだろう、それはなぜかというと、単に礼拝というのが本当は「とてもむつかしい」からだ、正しいやり方というのがあって、それはとてもじゃないが誰かに教えてもらうより獲得できるわけがねーよというレベルのむつかしさなのだった。

何しろわれわれは、本当にアホなので、何かしら神社や仏閣や、教会や神棚や仏壇に礼拝しようとするとき、自分を「聖なる心地」にしている/冷静に考えれば、これはアホなのだ、われわれに聖なる心地が得られるのだとすれば、それは礼拝の「後」であるべきであって、礼拝に臨む前から、聖なる心地などが得られるのであれば、もう礼拝する必要はない、こんな単純なことにも気づかないほど、われわれはアホであり、なぜアホかというと、まともに誰かに「教わる」ということを経てきていないからだ。
「教わる」というのも、何か形式や情報を、言語化して暗記すれば、それで「教わった」と思っているしな……だから困ったことに、われわれはある意味ですっかり「出来上がって」いるのだ、礼拝なんて激ムズのことはわれわれにはできっこないから、本来は教わらないといけないのだが、その「教わる」ということもなかなかにむつかしいので、まず「教わり方を教わらないといけない」という状態にある、けれども教わり方を教わるにしても、教わり方を教わっていないわけで、どうもできねーじゃんという、わかりやすい閉塞に陥っている。
だからどうすればいいのか、ということになるのだが、どうすればいいと考えたところで、誰かがそれを教えるとか、誰かにそれを教わるということも、ほとんど破綻しているのだから、まあどうなのだろう、あるていど諦めるということも、リアルなこととして必要だ、せめてわれわれが他人のことを諦めるのと同程度には、自分のことも諦める必要がある、そうでないと辻褄が合わないしな/墜落する状態のまま飛び立った飛行機が、今さら上空で「どうしろってんだ」という話で、まあそういうこともあるさと、笑おうが笑うまいが、行き着く結果は同じか、だからもうあとは個人の趣味しかない。
そういった、いまいち笑えないテンヤワンヤに行き着く前に、僕はすべてのことを前向きに、光あるように保っておきたいのだ/僕はよく友人に、「ごくふつうの程度には、神社やお寺にもお参りしたほうがいいよ」と勧めるが、それが何かになると勧めることはまずない、「何かになる、のじゃなくて、何かにならなくて済む、ということ、自分の知らないところで」と言うことが多い、何しろ本当の礼拝の仕方なんて僕も知らないし、ただ僕が知っているのは、われわれには聖なる心地で礼拝になんか臨めないよということだ、これは別に聖人でなくても単なる理知でわかるだろう、<<あなたが清潔ならシャワーを浴びなくてよろしい>>。

汚いもん見せて土下座しな。

汚いものを見せ、自白し、晒し、その姿のままひれ伏すことだ、ああなんてシンプルなんだろうな/われわれがやるアホは二通りあり、ひとつは清潔なわたしで拝むこと、ひとつは不潔なわたしで居直ることだ、われわれは人間が小さ〜いので、不潔な己を認めるときは、オラついてふんぞり返ることしかできないし、何かに伏して頭を下げるときは、清潔なワタシを気取って頭を下げることしかできない、どちらも傍目には見苦しいということがわかるのに、自分でやるときにはきっちりその見苦しさをなぞるものだな。
われわれが、己の汚いところを開示し、それで一ミリも居直らないなんて、なかなかできることじゃない、だからわれわれにとって、礼拝などむつかしすぎるのだ……あはは、そのぶん、本当に「礼拝」というものが成り立つときは、本当に面白い、実際には「うわっ」と自分でおどろいてひれ伏すからだ、まさにこのこと自体おどろくべきことだが、人が礼拝をするのは、人の意志ではないのだ、人がカミサマに出会うと、人は己自身の重さで倒れ伏すのだ、伏せようとして伏せるのではなく「うわっ」と倒れてしまう、「無理です無理です、立っていられない、ちょちょちょちょ」という感じだ、礼拝とはそうした物理的なもので、カミサマが頭を抑えつけるのではなく、カミサマが人に "重さへの抵抗をやめさせる" のだ、それはカミサマに出会うたびに起こり(出会うといっても本当に刹那で、おそらく数千分の一秒というような単位だ)、そのたびに「ふおっ!?」と、膝から崩れ落ちそうになる、倒れ伏す挙動自体は己の重さから生じているので、挙動は物理的だ、カミサマは重さへの抵抗をやめさせているというより、正確には物理的な "「上下」を教えている" というだけだ、物理的に上下を教わると重い者が下に行くのは当たり前であって、だから己の身の重さで倒れ伏せる、本当に物理的に膝にくるような形だから、絵的にも面白いのだ、そして倒れ伏せることを繰り返したあと、立ち上がると身は少しだけ軽くなっている。

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