☆いい女☆で行こう!

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物理的に倒れ伏すという「礼拝」が起こる仕組み2

れわれは、必要があって己に「呪縛」を掛けているのだ、「呪い」というのは「のろい」と読んでもいいし「まじない」と読んでもいい/とにかく呪縛だ、「悪いことをすれば悪人でダメ、天罰がありますよ」というのろいを己にかけ、「善いことをすれば善人でイイ、きっと報われますよ」というまじないを己にかけている、そうして自分を縛り上げている。
なぜそうして自分を縛らなくてはならないかというと、縛っているものを解いたら、カルマ行動が発現するからだ、われわれの身は煩悩と業と因果のかたまりであり、こんなものを解放してやると、ただちにカルマぶっ放しの行動・行為しかしない/われわれはふだん、おおむねは善人であり、表面的には善行しかしないものだが、それは呪縛の結果として善人と善行が強制されているにすぎず、ぶっ放した結果として善行が炸裂しているのではない、われわれは己の行為を善に保つために、己を呪縛で固定してあるのだ、そのことまで含めて善人は善人と呼んでよいのが一般的なルールだろう。
悪い子はいけません、よい子でいなさいと、親に教わったのではなく、親に呪縛を与えられたのだ、なぜ親がそれをするかというと、親は一親等の存在であり、呪いというのは主に血を媒介して為されるからだ、あんまりこんなことには詳しくならないほうがいいが、とにかくこれは呪縛であって、生きていくのに必要な呪縛だから、責めるにはあたらない、ただしそれを「教わったこと」と誤解し続けていると、結果的によいことには行き着かない、なぜなら呪縛された善人は「礼拝」の仕方にたどり着けないからだ。
もちろん、呪縛をいきなり全部解いたら、破滅しかしないので、徐々に解きほぐしていく必要がある/そして呪縛を解きほぐすということは、固定を取り外すということ、つまり己のカルマを発現させるということであり、ここから生じるカルマ行動を、カミサマにつぶしてもらえないと、人はただカルマ行動からカルマを増大させていくばかりになる、そんなカルマ増大に向かうばかりなら、呪縛されたままのほうが遥かにマシじゃんというのも、人が持つ直観的な判断だ。

予備的な話になるが、女性がデタラメに男に抱かれるわけにいかないのも、これが理由だ、女性には男のペニスと射精を求めるという業(カルマ)があるが、このカルマをぶっ放して、さらにカルマが増大して身が重くなるのでは、自ら致命傷を招くようなものなので、女性はこのことに慎重になる、これは当然の判断だ/だから女性は、直観的に「この人なら大丈夫」と思った人に抱かれようとする、その「この人なら大丈夫」というのは、自分のカルマ行動をつぶしてくれる人ということだ、このカルマ行動をつぶされた姿が、そのまま「礼拝」という形になる、だから礼拝すればカルマ行動がつぶれるのではなく、逆だ、カルマ行動がつぶされたときの姿のことを、人類はこれまで礼拝と呼んできた。
だから、礼拝うんぬんの手続きは、本当にはこうなる、1.主に両親と世間による呪縛(カルマ行動の封印)→2.適切な場を得て、呪縛の徐ろな解除→3.適切な程度の、カルマ行動の発現(つまり、「悪いこと」を自白的に行為する)→4.カルマ行動が、刹那のカミサマに接触し、上下と「重さ」を教わる→5.物理的に、己の重さが膝に来て、立っていられなくなり、自ら倒れ伏す(礼拝)/こういう手続きだ、むろんこのような「礼拝」が生じるには、導き手となる誰かがそこに必要であり、装置や施設や情報だけで成立させられることではない。
われわれが少しでも因果を逃れるのは、実にむつかしいことで、つまり呪縛していた「悪いこと」を実際に発現・行為し、その行為がただちに、刹那のカミサマに接触して、物理的につぶされねばならないのだ、自分の身そのものと、カルマ行為の重さでつぶれる、その重さが実際に膝に掛かってきて、立っていられなくなる/ただし、あくまで己の重さでつぶれるということ、他の何かのエラソーな力でつぶされるのではない、だからお説教や権力でつぶされるのではまったくない、そんなイージーな話ではないのだ。
われわれの身の内は、ふつう善人ではないので、それを呪縛で封印して、善人を気取っていてもだめなのだ、カルマの増大はやや防げるが、その呪縛善人モードでカルマを償却はしてゆけない/だから呪縛を解いて、少し「悪いこと」をしなくてはならない、実際にわれわれがそうした「悪いこと」をできてしまうのは、封じてあるだけで本当は「悪いことをするという能力」があってしまうということだ、この悪いことをする能力を実際に発現させて、行為し、この行為が、世間や司法や権力や腕力の「力」でつぶされるのではなく、カミサマに触れて、己の身の重さと行為の重さでつぶされねばならない、それで重さが膝に来て立っていられなくなり、倒れ伏した姿を「礼拝」と呼ぶ、礼拝というのはそこまでのものだから、そりゃ何度もペシャンコに倒れ伏していたら、そのたびに少しずつ身は軽くなっていくだろう、そのことが繰り返されていくうち、自分の中から「悪いことをする能力」そのものが消えていくのだ(カルマが償却された)、だから呪縛の必要がなくなってくる、こうして「悪いことをする能力」を消し去っていった人は、たとえば友人の尻を後ろから蹴ったとしても、それがなぜか「悪いこと」にはならない(それがカルマ行動ではないからだ)。

悪いことをしようとした瞬間、数千分の一秒、カミサマが出現し、「うおっ!?」と上下が掛かり、物理的に自滅する、その自滅でペシャンコになった姿が「礼拝」だ。

こんなこと、得がたいとか有り難いとかいうレベルじゃない、フツーに「ない」だろ/なお、カミサマが「出現」するというのは、そういう姿のものがババーンと出現するわけじゃない、そういう空想的なものではないのだ、風景としては何も変わるところはないのだが、何か違うものが現れているように見える、そして何より、自分がつぶされていくということそのものに、「こりゃカミサマだ」ということがわかるだけだ、カミサマそのものは、作用としていずれわかるようになるが、出現そのものは数千分の一秒なので、まず通常は観測されない、ただ「今何があった? 何かヤベー瞬間があるのだけはわかるし、その後はもうアカンのはわかるわ」という程度にしか認識できない。
せめて知っておいたらよいことは、「善人」の周辺にいるあいだは、どうやっても「礼拝」は起こらないということだ、もちろん単なる悪人というのでもダメだが、礼拝というのは「悪いことをしても悪いことにならない」という人の周辺で起こる/その人は悪いことをしても悪いことにならないのだが、その人に向けて自分も同じ悪いことをしてみようとすると、なぜか「うおっ!?」となり、重さが掛かってペシャンコにつぶれてしまう、そういう形で「礼拝」は起こる、なお余計な情報だが、大げさに悪いことをしようとすると、その重さで自分が本当にケガをしたり損傷したり、精神的にマジで死んだりすることもあるので、大げさなことは考えないことだ、われわれのカルマが償却される速度というのは鉛筆の芯が減る速度の数万分の一しかないと思え、だから鉛筆の先ほどの悪いことを、そのたびにつぶされていくということ、それでもじゅうぶん膝にきてつぶされるから、それだけわれわれのカルマは物理的に重いということだ、重いというかつまり身の「力」だけどね、力は腕力だったり権力だったり魅力だったり、まあとにかく「礼拝」というのは本当はそれぐらいむつかしく、むつかしいという以上に極めてレアなのだった。

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