☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< 「地球外生命体っているんですかね〜」「お前さぁ……」 | TOP | "ガチ" >>
WS報告024(3)/マスターと命令とミリ秒と作品と礼拝の世界
ークショップ関連のネタで、報告するのを忘れていた。
「世間」ではなく「世界」という場合、世界というのは<<マスターの命令なしにはびた一文動かない>>、「びた一文」という慣用句の使い方を間違っているのだが、「びた」と言いたいのであえて間違ったまま使おう、「何度も言っているように、マスターの命令なしではびた一文動かないんだって」。
「創作というのは、チームワークだろ、チームワークといえばリーダーシップだ、リーダーシップといえばマスターだろ、マスターと言えば命令だ、そして命令といえば本当はミリ秒なんだよ、風向き等もあるにせよ、本質はミリ秒にたどり着くしかない」「これを "開闢" という、開闢は集中の反対だ」「集中は、空間がありつつ、何かが一点にギャッと集まるから集中だろ、開闢はその逆、ある一点から空間がパッと始まるんだ、だから開闢だ」「誰かがマスターに立って、命令を出すところに踏み出さないと、世界は本当にびた一文動かない」。
ワーク中、「びっくりしすぎた」といって、スタジオの隅で丸まって眠っていた人がいたが、後日になって連絡が受けると、やはり「びっくりしすぎてダウンしたw」という報告だった、うーんそうか、びっくりしすぎたか笑、まあびっくりするんだな/そういうものなんだなあと、そういうことは、僕は他の人からヒアリングしないと知らないのだった、僕はもうずっとそういう開闢法の中にいるようなものだからな。

キャパシティをオーバーしたら、トラブルになる前に自己責任で離脱して休憩しなさい、という、アタリマエのことを、当ワークショップでは「分別(ふんべつ)」と呼んでいる/別にわざわざ呼ぶ必要はないのだが、いちおう関連するネタがあって、わかりやすいので「分別」とした。
それはいいとして、「作品」というのは実作業において不思議なもので、マスターが本当のところを捉えていると、プレイヤーには何かが視えてくるのだ/マスターの無比なる「命令」があって、プレイヤーはわけのわからないまま命令どおりに動くのだが、何もかも「わからん!!??」のままやらされているのに、やらされているとただちに、自分の役割・やり方が「視えて」くるのだ、それで「何これ」となり、「わからないままわかってくるこれは何?」、それがあまりに未知の現象なので、場合によってはびっくりして寝込む(らしい)。
なぜ作品に関連しては、マスターの命令というのが、「ミリ秒」で「開闢」でなくてはならないのか、なぜそうでないかぎり、どれだけ大声を出してもびた一文動かないのか、なぜ前日から刺激的に膨らませたイメージを、吹っ切れたように展開するという方法では、内輪満足にしか成り立たないのか……それは、ソ連の文学理論家ヴィクトル・シクロフスキーの有名な言い方で言えば――<<芸術は、ものが作られる過程を体験する方法であって、作られてしまったものは芸術では重要な意義を持たないのである>>、からに他ならず、またガストン・バシュラールに言わせれば、想像力とは「イメージではなく、イメージを歪形する力」ということだし、そうした想像力というのは人間の「よい状態」というのではなく、人間の「存在そのもの(イグジスタンス)」なのだとウィリアム・ブレイクが言っているとおりになる。
僕はこれらのことを、単に作品のメディアに現成せしめるのみならず、われわれの肉体と脳そのものが、かかる芸術作品と想像力のサーバーユニットそのものでありつづけるという、そういう肉体と脳を具体に現成せしめることができるのではないかと――具体をフィクション化できるのではないかと――現在のように取り組んでいる、そうなるとそれは愛(世界愛)であり神話であり礼拝である(また永遠であり存在である)ということから切り離すことはできず……ただ具体的な実践者として、思いがけず「速さ」、「ミリ秒の中にすべてを捉え、ミリ秒のうちにそのすべてに従う全身でなければ、このことは為されない」という、時間軸上の問題へのアプローチが大きな一手として出現してきたことを、面白いなあという感興と共に報告している、今のところ明確に「作品はミリ秒で完了しろ」という作法を打ち出している説はヨソにたぶんないと思う。

作品はミリ秒で完了し、完成には時間が掛かる。

完成にどれぐらい時間が掛かるかというと、厳密には完全な「完成」というのはないにせよ、一定の「完成」に到達するためには、具体的な技術レベルの問題が出てくる、「作品」という現象そのものがミリ秒で隅々まで捉えられたとしても、「具体的にプレイできないじゃん」ということがある/だから「作品」ということを考える場合、あくまで小作から取り組むのがいい、技術的にはカンタンなはずの小作を、間違いなく「作品」であらしめる、そのためにミリ秒へのアプローチをさぐる。
だがそれにしても知るべきことは、作品はミリ秒で「完了」するのだということ、ここをじっくり努力して、汗を掻いて、血の滲むような思いをして……ということでは、努力と意欲の痕跡が生じてくるだけで、「作品」というものは生じてこない、それは「作品」の原理と異なるからだ、ミリ秒の「開闢」の中にしか「作品」という現象の性質は生じてこない/この純然たる「作品」という現象について、それをプレイするのも、また向き合って観るのも、一種の礼拝の作用をもつ、だから作品は人を物理的に膝から崩すほどの作用をもっているのが望ましい、そのとおり人が寝込むぐらいのほうがいいのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |