☆いい女☆で行こう!

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"ガチ" 4/稽古と実戦は別ジャンル(当たり前)

んというか、面倒くさくなってきたので投げやりに言うが、「フィクる」という前提と能力がないと、学門的稽古はムリどす〜 やっていれば上達するとか100%ウソどす〜
割と自分のことを、ビッグ・アホだと気づいていない人もいるので、そういう人はメラメラっと、ガチるマインドで稽古に取り組むわけだけれとも、そんなフンガーフンガーやったところで、何かになるわけなかろうべ/あなたの内なるキモチなんて、学門はわずかも汲み取ってくれませんから……何です、その「内なるキモチ」ってやつ、もちろん外なるキモチにしても同じだけれど、それって学門に何の関係もなくない? などと、おいどんは思うわけです(たい)。
例としては、剣道なんかがわかりやすいけれども、もともとサムライが真剣で斬り合いをしていたわけで、その稽古をするにしても、木剣や真剣でやっていたらケガ人と死人続出になるので、「竹刀」を導入したわけだな、もともと竹の棒を竹刀に「見立てる」ということで稽古をしていた、そうして「フィクって」いたわけだな、そりゃそうでなきゃ竹の棒を振り回していてもただの竹棒振り回しマニアでしかなくて何の意味もない、竹の棒が振れば速いのは竹だからであって当たり前だ!!
が、そういったことは、やがてウヤムヤになり、フンガーフンガーとなっていくので、案の定、剣道は「竹刀でガチる」というスポーツになっていった、ただガチるといってもケガをしたら本末転倒なので、「打ち込んでよい箇所をルールで決めよう」となっていった、そうして剣道は「竹刀でガチる、ただしルール内な」「ルールから外れたらそっち側が負けだから」というスポーツになった、当たり前だ/そうして誕生したスポーツ剣道が、何ら悪いわけではないが、わずかでもそうした竹刀ガチりマインドが入り込んでいたら、竹の棒を真剣に「見立てる」という、フィクった上での「稽古」はできねーよという話なのだった。

なぜか、漠然と自分に自信のある人に限って、稽古のフィクり要素の部分はポカーンと聞き流し、よくわからないまま稽古が開始されると、「ガチったらなんとかなるやろ」という乱暴をやる、もともとそういうプランで取り組むつもりだったというような気配、しかしそれで発達していくのってただのガチ筋肉とガチ鼻息だけであって、それは稽古でも何でもありませんで……
こういうとき、冗談でなく、「この人たちは、火星に探査機を飛ばせと言われたら、そのときも、『とにかく筒に燃料入れて火を点けよう』『ガチったらなんとかなるやろ』という、自信と乱暴をやるのだろうか……」と考えてしまう/最近になって、こういう人たちにはなぜか学門に対して「憎悪」があるということに気づいた、そうして気づいてみると、とにかくガチるマインドの人は、一般則として学門を憎悪しているのだ、何がどうなってそうなるのかは知らないし、別に僕が知らなくていいことだと本来思う。
ただ何にしても、「ガチったらなんとかなるやろ」ということは、学門的稽古においては一ミリもないわけで、むしろガチればガチるほどヘタクソになりマース、と断言しておこう/どうもどこかで、その場しのぎをし、今日一日を何かガンバったふうにして、キツいことを避けようとする気配があるような気がするのだが、それは僕の気のせいかね、学門としての「教え」が視えないと何の努力もできないのだが、何か諸事情によって、「盲目的にがんばる」というフリをするという、自己演出がパターン化していません?
単純な話、「稽古は実戦じゃないですよ」ということが、根本的にわかっていない人が少なからずいるみたいだ、稽古と実戦は別ジャンルでっせ、そしてガチりマインドの人は稽古場ではなく実戦場にいけばいいじゃん……何か都合のいいイケイケ実戦を詰めば、特別なアタシになれると思っている人が世の中に多くいるような気がするのだが、「実戦」はみんな毎日、実生活でしているでしょう、それで実生活の結果がリアルなすべての「戦果」じゃないか、ウソ稽古にガチりマインドを注入したところで本稽古にはなりませんので、何がわかっていないかというと単に稽古の「学門」がわかっていないということだ、そしてこれを諭そうとするとなぜか「憎悪」で反発する人があるのだった、うーん何かそれは精神がムチャクチャになるドラッグでもキメているのじゃないかね。

「稽古」があなたに "入る" のであり、あなたの内から何か能力が出るわけじゃない。

そりゃ学門なのだからそうでしょう、運動方程式 f=ma があなたに「入る」のであり、あなたの内から重力がドカーンと出ますかいな/努力と訓練と暗記とクセで身につくなら、稽古なんかせずライザップにでも行けばいいのであって、稽古というのはもっとナゾのものだ、なぜナゾかというと、それが何であるのかは稽古が己の身に正しく入ってからしか視えないからだ、そりゃ f=ma が本当に己の身に入るまでは、「運動方程式ってけっきょく何なんだよ〜」というのは視えないじゃないか、学門というのはすべてそうだろ。
うーん、ガチる人は本当に、ライザップに行こうね、どう考えても「ライザップがわたしの中に入る」ってことはないだろ、どう見ても「ライザップにわたしが入る(入会)」のであって、それは稽古の逆だ、ライザップにあなたが入れば、あなたは自負と筋肉をムキムキにするが、自負と筋肉をムキムキにすると、あなたの中に稽古は入らない、そりゃムキムキに張り詰めているものに何かが「入る」ってことはないよ、ライザップは何もフィクっていないだろ、稽古の目的とはフィクションがそのまま身に入るということだ/そう考えれば、僕がいくつかの稽古で異様に習得が速いのもつじつまが合うだろ、「フィクったものがそのまま身に入る」、だから本当にそういうことなんだよ、稽古の中には何のガチりもなくて、身に宿すべきフィクった何かだけが集められてあるのだ。

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