☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< 涅槃寂静(単位) | TOP | フィクションとノンフィクションを取り違えない >>
祝福と呪いと「恐れるなかれ」
々からわかっていたことだが、呪いには祝福で対抗すべきだ。
呪いをやっつけようとしていると、それがノロイであれマジナイであれ、同じ領域に立たねばならないので、ダメなのだ、ただの呪力のやりあいになってしまう。
「呪い」などというと実におっかないが、呪いというのは、それが実在する人にとっては実在するのだ、実在しない人にとっては実在しない/祝福の領域に立つ人にとっては呪いは実在しない。
うーん、ちょっと「やはり」と失笑してしまうが、それはいいとして、祝福の領域に立っている人には、呪いは効かない、その領域に呪いは存在しないからだ、だからこそ呪いに対しては祝福で対抗すべきであり、対抗というよりは、祝福のほうがより上位にあることを知るしかない/呪いの力を持つ人だって、本当の本当にそうなりたかったわけではないし、本当の本当には、そんな領域からは出たいのだ、誰だってやがてはそこから出られるとこころの奥で信じて生きているのだ。

呪いの根源は奥が深く(なんだこの話)、根源的には「フィクションとノンフィクションを取り違える」というところから起こっている。
この取り違えの最大が、当然ながら宗教において起こるだろう、カミサマが存在するというのはわれわれにとってフィクションという事象平原が不可思議(観測不能)に存在しているということであって、信仰というのは、そのフィクションをノンフィクションに引きずり降ろしてくることではない。
その意味で、やはり直観に知られているように、「宗教はコワイ」のだ、もちろん宗教だけでなく、同じことは他のさまざまなことに当てはまる/宗教に限らず、人が人に何かを「教える」というとき、その教える側が必ずしも「開眼」しているという前提はない、<<もし開眼した人が前提であればその人は必ず祝福の領域に立っている>>。
というわけで、呪いというのは、フィクションとノンフィクションの取り違え、つまるところ「やっちまった」人が、背負わされる形で得る力なのだ、この呪いを背負っている人は、どれだけ「いい人」に見えて、どれだけちゃんとしていて、どれだけ活躍していて、どれだけほがらかに笑っていても、目の奥がやさしい光で満たされることはない/このように、呪いというのは何も「悪い」わけではなくて、ただ祝福とは領域が「違う」のだ、どちらがよいとか悪いとかの話ではないので、呪いの人は呪いの人の領域に立ち続け、祝福の人は祝福の人の領域に立ち続けるべきだ。

祝福の人は、すべてを祝福につなげること、呪いの人は、すべてを呪いにつなげること/つまり、「恐れるなかれ」。

祝福の人は、けっきょく呪いのことができないし、呪いの人は、けっきょく祝福のことができないのだ、常にゆくべき道をゆけ、すべてのものを祝福につなげるか、そうでない人は、すべてを呪いにつなげるのだ。
祝福するのに困難なものを見つけたとき、レベルの高い学門が生じるし、また、呪うのについに困難なものに出会ったとき、そこにはやはり何かが生じるのだろう、何がそこに生じるものなのか、僕の側からはわからないし視えない。
正しく見ないとな | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |