☆いい女☆で行こう!

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フィクションとノンフィクションを取り違えない
「フィクションとノンフィクションを取り違えない」。
これは、話としてはシンプルだが、実際としては困難をきわめる。
誰にだってふつう、「かわいそう」とか「グッとくる」とかの現象があるからだ、これがなかったらまるで人でなしのように見える。
だが、もしカミサマがフィクションにご在中なら、その「かわいそう」とか「グッとくる」とかは、取り出されてはいけないのだった、なにしろ学門として正しくないからだ/「人でなし」というと実に悪い感じがするが、前提としてわれわれは「人」に高値をつけすぎじゃないか。

けっきょく、カミサマ的なものから切り離された、厳密な意味での「人」は、まったくいいものではない、相互に共食いをするような生きものだ/もしそうでなかったとしたら、そもそもカミサマなんて要らないだろう。
このことをよくよく見るのだ、誰にとってもいつか役に立つときがあるだろう、その人が「人」らしいほど、その人の性根は思っていたものとは異なるものを内臓していくのだ、それは悪意によるものではなく、そもそも「人」というのはそういうものなのだと知られねばならない。
カミサマを廃棄して、「人」こそすばらしいじゃないかと考え、大規模にそのヒューマニズムを実行してみたのが、かつての共産主義だが、共産主義はご存知のとおり、戦争より悪質で膨大な流血をもたらした、それはある意味、「人」の本性を表示したひとつの大きなシーンだったとも言える。
人は、ノンフィクションなのだ、そしてこのノンフィクションの生きものから、フィクションは生じない、人がしばしばフィクションを作品や神話として出力することがあるが、あれは実は人からフィクションを出力しているのではなく、フィクションが人に入力されているのだ、主体の存在について、実はフィクションの側に「主」があったということになる/ヒューマニズムは、この主体のありかを「人」に定義して生じる思想だ、こうしてフィクションとノンフィクションの取り違えが起こる、つまりノンフィクションの分際からフィクションが出力できると思い込むことで取り違える、たとえば共産主義はそれをユートピアと呼んだ。

人のやさしさは、人ならざるもののやさしさに及ぶことはない。

だから、人のやさしさを、人ならざるもののやさしさと、取り違えてはならないし、人ならざるもののやさしさを、引き下げてもいけない、人が人に対して威張っていい理由はどこにもないが、人ならざるものを引き下げていい理由もやはりない。
人ならざるものの、やさしい音色が響き渡る、これを取り違えてはならない、人為の判断と加工と演出で、人ならざるもののはたらきは捏造できない/<<人から離れよ>>、それは他人から離れるということではなく、己自身という人から離れるということだ。
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