☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< 新しい未来を切り拓け | TOP | 生前と死後2 >>
生前と死後
はり、人が生きているというのは錯覚らしい、もちろん生身のそれは生きているのだが、人の「存在」はそもそも生死と無関係だ。
つまり、生前がどういう人だったかということは、その人の存在にあまり関係がない、びっくりするようなことだが、しかしマイケルジャクソンの映像などを見ていると、彼がすでに故人で「死んだ」という感じがどうしてもしない。
人が、己の「存在」に近づくほど、その人は「生きている」という感じがしなくなってくるのだ、錯覚が薄くなって真実に近づいているからだろう。
仮に誰かが死去したとして、その人の生前の「その人らしさ」を思い出して、「かわいそう」と感じるのは、やはり鋭く危険なことのようだ、なぜ危険かというと学門として誤っているからだ、生前の「その人」に死後の「その人」を引き当てることはできない、そんなことをするとまるで存在に還った人を生死のこだわりへ引きずり落とすかのごとくになる、これはけっこう鋭く呪われるものだ。

先日、われわれは「人」に高値をつけすぎていると指摘したが、それと同様に、「生きている」にも高値をつけすぎている。
かといって、死んでかまわないということにはならなくて、生きているうちに自分を己の「存在」に近づけねばならないのだが/とにかく生死の前後にあるものを同列にならべるのはおかしいのだ、フィクションをノンフィクションに貶めていることになる。
この世にあったものがあの世にいくわけではない、この世のものがあの世にいくことなどありえない、この世の情報をもとにあの世の人を指差すことはできない、「あの人」というなら厳密にはその「あの人」はもともとこの世に存在していない。
まったく奇妙なことだが、この世の人格とあの世の人格はまったく別の人格だ、にもかかわらず同じ「あの人」だ、「生きているうちに、もっとあれこれしたかったでしょうに」と想定して悲しむきらいがあるが、そういうものではない、その「もっとあれこれしたかったあの人」という人はもう消えている、同じ「あの人」なのにもうまったく違うものだから、そこにこの世情報を当てはめて想定するべきではない。

ナマモノの持ち込みは禁止です。

鶏肉をジューッと焼くと、元は生鮮品だったものが、生鮮品ではなくなるのだが、この焼き鳥に生鮮の話をしてもしゃーない、焼き鳥はもう生鮮品ではないので「?」という反応になる、あの生鮮はどこにいったんだという話になるが、それでいてやはり同じ鶏肉ではあるわけだ。
海外に転居した人を、「もっと日本であれこれしたかったでしょうに」と、想定して嘆き悲しむだろうか? もしそんな人がいたとしたら、その人は自分の住む場所しかまともでないと思っているのだ、そりゃ聞かされたほうも周囲の人も「?」となるしかない/「かわいそう」というのはあくまで生きていた人に向けるものだが、その生きていた人はもういないので、誰のことを悲嘆しているのかわからない、これは学門としての誤りなのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |