☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< 生前と死後2 | TOP | 間に合うということは「間に合っている」ということ >>
やさしい人と、憂さ晴らしの人
とえば、誰かが結婚詐欺に引っかかったとする。
すると、「あの人ってさあ」「ねー……」と、ヒソヒソ話が交わされ、ひっそりとした嘲笑や見下しが起こったりする。
よくよく考えると、こうしたヒソヒソ話や、嘲笑や見下しに、まったく縁のない人もいるし、まるで生まれつきというように、ヒソヒソ話が似合う人もいる/そしてこうした属性は、ほとんどの場合、生涯のあいだ変わらない、ヒソヒソ話の中学生グループは、おばあさんになってもヒソヒソ話をするグループになっている。
こうしたヒソヒソ話や、嘲笑や見下し、またいわゆるいじめなどでもそうなのだが、何が根底にあるかというと「憂さ晴らし」なのだ、人によって憂さが溜まっていく人と溜まってゆかない人があり、憂さが溜まっていく人は憂さ晴らしなしに日々を過ごしていくことはできない。

誰か他人が損をしたり、恥をかいたりしたとして、もしそれを傍目に見る人が「憂さ」をもっていないのならば、ヒソヒソ話やら嘲笑などは起こらない/根底にあるのは「憂さ晴らし」というメカニズムなので、憂さがなければメカニズムは挙動しない。
根本的に憂さが溜まってしまう人の場合、どのように人にやさしくしようとしても、無理なのだ、人は憂さが溜まると憂さ晴らしをしないではいられないので、いつでも潜在的に憂さ晴らしを探している人になってしまう、そういう人が「やさしい」とは決して言えないので、憂さの溜まる人は構造的にやさしい人になるのは不可能になる。
ブラック企業なども典型的にそれだが、ブラック企業というのは、単に労働条件が劣悪というのみならず、そうして過酷な労働をさせられている人を見て、すっきりする、憂さ晴らしができる、という人によって形成されるのだ/人が恥をかいたり、困っていたりする、そういうさまを眺めているのがどうしても好きな人がいるのだ、憂さ晴らしというのはそういうメカニズムなので本人も止められない。
地域によっては、他人の畑にわけのわからない嫌がらせをする農家がいたり、新しいクラスメートの中で全員が「まずはいじめられないようにしないと」と図りあったりする、これらのことはすべて「憂さ晴らし」というメカニズムから生じている、その中では、憂さ晴らしのターゲットにならないことが最大の関心というふうになっていくものだ/「やさしさ」の反対は「憂さ」ということか、そしてなぜか、この「憂さ」は、性的に抑圧されている人の中に特徴的に溜まっていく、憂さ晴らしには一種のオーガズムがあるのかもしれない。

「憂さ」という、ナゾの倦怠物質がある。

憂さが溜まる人は、他の誰かがドジを踏んだりすると、うれしくてたまらないのだが、なぜ他人のドジが自分の「すっきり」になるのか、冷静に見ると理由がわからない、理由は「憂さ」と「憂さ晴らし」としか説明できないが、やはりナゾだ、なぜなら憂さ晴らしをした人も、半日後にはふたたひ憂さが溜まっていっているからだ。
よく「三大欲求」というような言い方をするけれど、人によっては、そこに「憂さ晴らし」を足して、四大欲求にしたほうがよいのかもしれない、われわれは「おなかすいた」「眠い」「セックスしたい」という欲求についてはよく自覚しているが、「憂さ晴らししたい」という欲求については自覚が非常に薄い。
視点変えてこ | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |