☆いい女☆で行こう!

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本当に出来るようになるということ2
つか必要になる(かもしれない)正しい理解のために、逆側から知っておいたらいい。
何かが「本当に出来る」という場合、それは空間やら天やらから「出て来る」のであり――「もともとこの世界にあるもの」が出て来る――、その人の身の内から出てくるわけではない/だからこのことを逆に取ると、「その人の身からは何も出てきていない」と見えることになる。
「本当に出来る」という人が目の前に立ったとき、その人の身からは何も出て来ていないのだ、声にせよ目つきにせよ、その力にせよ動きにせよ、何かしらのワザにせよ、あるいは「言葉」にせよ/何かすさまじいものが、空間から天から出て来ていて、人の身からは出て来ていないから、<<すさまじいくせに何の実感もない>>という特徴がある、まともに人と向き合っている実感がまるでないのだ、そのときはむしろ<<自分がまともに人である実感にずっしりとこもった違和感を覚える>>という体験を得る、何かが「本当に出来る」というのは実際それぐらいヤバいレベルのことなのだ。
だから、このことを、一般の逆方向として知っておいたらいい、本当に出来る人は、その身から何かがギンギン出ていたりはしないということだ、声にせよ目つきにせよ、その力にせよ動きにせよ、ワザにせよ「言葉」にせよ、「この人の身からは何も出ていない」というとき、その人こそが「本当に出来る」という人だ/そして当人は、けっきょくすべては人の身から「出て来る」ものではないということを直接知っているので、たいてい「わたしは何もしていない」「わたしが何か出来るということはない」と言ってあっけらかんとしている、それはいかにも芝居や謙遜で言われるものとは気配が異なるものだ。

人は、最も初期の段階では、自分の身から「吾我」しか出てこない、これが訓練を積むと、まあ訓練のパターンにもよるが、いちおう表面上の吾我は引っ込んで、「身」「身体」「骨」「呼吸」「気」「感覚」というあたりの、「具体」の作用が出てくるようになる、それはドライで機械的だが、確かに正しい「身体」の使い方であって、人の生きる一面は確かに「ボディワーク」なのだなということを実感させられる、このことは獲得して損なことではないし快適さと健康促進およびストレスのないコミュニケーションにおいて有用なので、こうした向上には説得力がありそれだけ正当な需要もある。
そうして第二段階の「具体」に移ると、それ自体はいくらでも追求できるから、中にはそのことへのオタクのような勢力も生じてくる、そしてその次の段階はというと、まったく別の話になってしまうので、場合によってはいかがわしくもなるし、そもそも信じがたいし、しくじるとただのイタい人になってしまうので、この先の段階は基本的にもてはやされないものだ/第三段階は「空間」になり、いわゆる「無我」というようなことへ希求が移っていく。
人は自分をどういじくっても、「無我」になんかなれっこないので、無我というのは自分をいじくることではなく、「空間」や「対人」とつながって同一化することだと気づく、そうして空間および対人の誰かと同一化するまでつながって、「無我」の技術を高めていくことになる、そうした無我の技術というのは割とフツーにあって、体験した人にとっては何も珍しくない、割と当たり前の現象になる(ただ、厳密に「極める」のはもちろん果てが無くてムズイ)。
そして、この「無我」の技術というのは、それを極めていくことは面白いにしても、実は「無我」そのものは何も面白くないので、このジャンルの人は必然的にそれを「極める」ということを面白みのモットーにしていくしかない/ではその先の第四段階は何かというと、これはもう自分で言っておいて何だが、まずアテにしないほうがいい、無我というと本当に「空間」しかないように感じられるが、ある種の信仰(というよりは数学的認識)と超短時間のオン・オフが獲得されている場合、その「空間」が実は空っぽではなく、無限の構造的な「光」に満ちていると気づくことがある、第四段階がその「"無限" が存在するっぽくね?」の直視(いわゆる「見神の事実」)であり、次の第五段階が、自らの挙動や言葉の連なりや声や言霊をもって「無限を一部分なりと "証する" (現成する)」ということになる、そして引くレベルの話だが、何かが「本当に出来る」(空間やら天やらから何かが「出て来る」)というのはこの第五段階の話だ。

吾我 → 具体 → 無我 → 無限(光) → 出来る

こんなの無理すぎて草不可避だが、ウソをついてもしゃーないので、そのまま書き話しておくしかない、また「出来る」「出て来る」といって、どれだけの量がブッコ抜かれて「出て来る」かにはレベルの差があるので、言い出せばキリがないのだった。
これは何かの訓練や修行を勧めているわけではないが、ただ順序として色んなものがあるよということを、先に知っておいたほうが何かと誤解がなくていいから話しておいた、人それぞれ志すところは異なってあると思うが(そもそもこんな意味不明なことに志なんかないか)、僕自身の考えとしては、吾我はさすがにアレだし、具体だけとか無我だけとか、無限の光で幸福だけとかいうのでは面白くないので、どうせなら初めから「本当に出来る」まで志すのがよくない? ということなのだった。
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