☆いい女☆で行こう!

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本当に出来るようになるということ3

れより先を言い立てても意味がないけれど、僕自身が忘れないように書き話しておきたい、「出来る」(空間や天から「出て来る」)に到達すると、その先は第六段階として「出て来ないようにする」という段階に移る/「出て来ないようにする」というのは、「天のものは天のもの」「空間のものは空間のもの」「こちらへ落ちてこないように」「天のものは天のまま」「空間のものは空間のまま」、むしろそれを保つために魂魄を振る舞うということだ、うーんこれはもうさすがにわけがわからないだろう。
何しろわれわれの生身はノンフィクションの存在で、ついこのノンフィクションの存在を救済したく思ってしまうが、フィクションの存在たる天や空間をこちらに落としてしまっては、けっきょく自分の魂がやがて救われていく先がなくなってしまう、だから天のものは天のまま落ちてこないほうがよいし、空間のものは空間のまま出て来ないほうがよいのだ/つまりフィクションをノンフィクション世界に「現成する」のではなく、ノンフィクションをフィクション世界へ「往かせる」という段階に移ることになる、そのためには向こうのものがこっちへ落ちてこないほうがいい。
そして、逆にそこまでいってはじめて、「出来ていないのに出来ている」という状態に至る、何も出て来てはいないのに、われわれがそちら側へ「往っている」ということになるのだ、これは手軽で便利で合理的でいい/向こうのものをブッコ抜いてくるのではなく、こちらのものをブッコ抜いて持っていって(連れていって)しまうということ、なるほどそりゃ話が早くていいよな。
第五段階が「出来る」なら、第六段階は「(連れて)往く」ということになる、こうなるともう、いよいよ当人は「何もしていない」し、「何もする必要がない」ということになる、第五段階までは「もともとこの世界にあるものが出て来る」だったが、第六段階では「もともとこの世界はその世界の一部にすぎない」になり、何のことはない、それぞれの魂(命)をもともとのそっちの世界に帰らせればいいだけだ/つまり無限(光)の世界が「出て来る」のではなく、もともとこの世界が無限(光)の世界を「失っていただけ」だということになる、いわば魂(命)が井戸の底に落ちたからそこに太陽が無いかのように思われているだけで、太陽光をブッコ抜いて来なくても、もともとの井戸の外に連れて帰らせれば何も努力しなくてもそこに太陽はガッツリある。

そうなると、そこに魂(命)を帰らせることができたならば、もうあとは個々人においては何も要らないということになるかもしれない、根本的な用事は済んだのでバンザーイとなるだろう/そりゃそうだろうが、それではあまりにもケチくさい気がする、個々人においてはそれで満了だったとして、それぞれの個々人が、できればそのほかにもたくさんの魂(命)をもともとの世界へ連れて往ける(帰らせることができる)ようになるのがベストだ。
前にも指摘したが、xy平面における原点Oは、原点「オー」なのであって、原点ゼロではない、オーは origin のオーだ、そりゃ「原点」なのだから/そしてすべての事象にとって「帰る」ところは「原点」だろうが、僕にはこの原点Oが、ゼロではなく無限に見えている、だからもともとの世界(原点)に魂(命)が帰るとして、無限の世界に魂(命)を帰らせるというのは、何も破綻していないというか、文脈上これしかないでしょという話だ。
僕が今話していることが、トンチキのイカレ宗教かオカルトのたぐいに聞こえるのは、いわれなき非難であって、僕の言い分はただ数学上の原点Oはゼロではなく無限じゃねーのということに由来しており、それがトンチキに聞こえるのは、聞き手の側が原点Oを「ゼロ」だと信じているからだ、だがその決めつけは単に数学のセンスと素養がないだけに僕には思われる/原点がゼロだと、「無から有は生じない」として、数直線も平面も空間も始まらないじゃないか、それよりは原点が無限だからこそ、xy平面には何でも書けるということに辻褄が合う。
原点Oが「ゼロ」とみなす派は、すべての魂(命)が、「無から生じて無に帰る」と思っているのだろう? それは数学的に無理があると僕は思うけどな/われわれの生の時計が一周するとき、その時計の針はもともとの、始まったときの頂点に戻ってくるはずだが、この時計の針がゼロを指しているのか、それとも無限を指しているのかという違いだ、何時何分でもない瞬間のこと、僕は無から自力で湧き出て来られるほどの超絶野郎ではないから、その瞬間の時計の針はやはり無限を指しているのだとしか考えられない。

確かに、視えないままでも連れて往ってもらうことはできるが、ケチを言わず視えるようになれ。

ワークショップ等で、僕がハイレベルな何かをやると、みんながふわーっと、「これで満足です」と落ち着いていってしまうのは、おそらくこれが理由なのだろう、そりゃ確かに根本的な用事は済んだのかもしれないが、もうちょっとベタに意識を高く持って、自分自身でも少しは高度なアクセス権を持てるように、そして何なら自分も誰かを連れて往けるように、目指してガンバってみてはどうかね/まあ、そのことのために九折さんのレベルを落として欲しくないというみんなの希望はごもっともなので、その点は引き続き了承するが、一応ダイレクトに知ってもらうために連れて往っているのであり、ツアーを体験してもらって用事を満了させるためのモンじゃないからね、どうせヒマなんだし何かひとつは「本当に出来る」というところへ到達してしまおうぜ。
第六段階は、天やら空間やらのものが、むしろこちらへ落ちてこないように魂魄を振る舞うという段階、フィクション世界がこちらノンフィクション世界へ「現成しないよう」に魂魄を振る舞うという段階だ、それは自分の魂(命)が帰る先がそこにくっきり保たれて残されたままほうがよいからだ、それがくっきり残されて存在しているのが視えれば、「フィクションがノンフィクションにならなくていい」と誰だってはっきり思うから、そのときはもう連れて往かれる観客だって「生身はさして重要じゃない」と勝手に悟る段階だ/その先はどういう段階になるのか、現在の僕ではわからない、ただ今のところは、天やら空間やらが落ちてこず保たれるよう、どんどん遠ざかっているという状態、むしろそのために僕自身が魂魄を振る舞っている状態だ、この先はもう「天やら空間やらはどこにもなくていい」という段階に至るだろうか、もともとノンフィクションはゼロ世界でフィクションは無限世界だから、両者の区別は観測しなくていいという気がしてきてはいる、今は説き明かすためにわざわざ区別しているだけだ、おそらく真相は「フィクションかつノンフィクション」という無区分の事象がひとつに起こっている、そうなるともう「往くという必要はない」「もともとここがそれで、脱け落ちる所以もないから」ということになるだろう、魂(命)を帰らせるどころか、魂(命)はそもそも元のところから動いてないじゃないかという段階、さしあたりそれを第七段階の推定としておこう。

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