☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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価値観の背後にはさびしさがある
さんは夏フェスに燃え、Bさんはアニメで自慰に耽り、Cさんは恋愛体質で、Dさんはパワフル社会人で、Eさんは病気と年金の話だけをし、Fさんはしきたりだけを重んじている。
このそれぞれの価値観が衝突を起こすので、人々は互いに牽制しあい、より直接には憎悪を向けあう、つまりFさんが娘に「お盆だから親戚の家に行きます」というと、夏フェスを楽しみにしていた娘Aは「えー!?」猛烈に反発して憎悪を起こす/娘Aだけではない、AからEまでの全員が「えー」と反発を起こすのが見えるはずだ。
なぜそれぞれが「価値観」を持つかというと、実はその背後には「さびしさ」がある、気づきにくいことだが、これは己の存在と生が「無」であるということにおびやかされる、対抗不能の破滅的なさびしさだ、そのさびしさを覆い隠すために、人はそれぞれの「価値観」を持つ/Aさんは夏フェスに入れ込んでいるとき、致命的なさびしさを覆うことができ、Fさんはお盆に親戚の家へ行くとき、致命的なさびしさを覆うことができる。
われわれは、どう立ち回りを工夫しても、けっきょくは根本の構造として、それぞれの価値観から生じる衝突と憎悪を避けられない、それが表面化しないのは、それぞれが力関係等で「ガマン」しているからにすぎない/この構造から逃れるすべは基本的にない、何しろ背後を支配している「さびしさ」が巨大で対抗不能のため、この「さびしさ」が解決しないうちは、人は価値観でさびしさを覆うしか選択肢がない。

おそらくいつのまにか、また僕が特異体質になっているのだと思う。
夜、一人でどこか、広大な土地を歩いていると、僕はなぜか、そこで「さびしい」とは感じず、何かが「無限だ」と感じる。
「さびしい」という体験が起こらず、「さびしい」という体験が不能になっているのだ、別に何かにすがっているつもりはないのだが、目の前に当然の世界があって、仮にそこで僕は一人で急死していったとしても、おそらくそのときに「さびしい」という感情はない。
よって僕は、いつのまにか、夏フェスに燃えるまでしなくてよくて、アニメで自慰に耽るまでしなくてよくて、恋愛体質までしなくてよくて、パワフル社会人までしなくてよくて、病気と年金の話ばかりまでしなくてよくて、しきたりを重んじるまでしなくてよくなった/よって僕は価値観をなくしており、その結果として、一般的な「話題」や、一般的な「人のつながり」をなくしている、僕はもう長い間、人々の背後にさびしさがあることに気づかなかった。

さびしさが価値観を生じる/無限が出会いを生じる。

逆にいうと、「さびしさ」が「無限」に転換されないかぎり、実は人は誰かと出会うことはできないということでもある、さびしいからこそ出会えないというのは意地悪な構図だ、だがこのことに真相の仕組みがあることを見抜かねばならない。
さびしさは土に還り、無限は天に帰るだろう、それはいつのまにか、魂(命)の origin が違うということだ、僕はこのことを知っている、われわれは物語の中でしか「出会う」ということはできない。
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