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リアルな話、人生はカミサマに出会ってから
験に立って、奇妙な話をしなくてはならない。
僕がまだ、幼稚園にも行っていなかったころだと思う、だから三歳ぐらいか、近所の空き地に、足首までの青い雑草が生え、子供の視点からは草原となっていたところに僕は立ち、空を見上げていた、青い空には厚い雲が湧き始めていた。
僕は空を見ていたつもりだったのだが、ふと、「空が僕を見ているのじゃないか?」という気がして、改めて空に見入った、すると空と雲は威厳をもって、ジロリと僕を見つめているように感じられた。
僕はそれで、急に恐ろしくなって――恐ろしいイメージを得たのではなく、生々しく恐ろしいものに睨みつけられながら――走って帰宅した記憶がある/それから何度も、僕はしばしば、空に取り憑かれて行動したようなことが何度もある、とてもいちいちを書き記していられないが、僕はもともとそういう奴であって、誰かにカミサマうんぬんを吹き込まれたことは一度もない。

経験に立って、これまでの出来事を整合させるなら、人は「カミサマに出会ってから、以降が人生」だと言わざるをえない/経験に立ち、事実を統合するならこう言うしかないのだ、人はカミサマ(ないしはその手がかりたる人)に出会うまで、ぶっちゃけわけがわからないまま漠然と生きている、得体のしれない生きものでしかない。
世の中には、どうしても「キモチワルイ人」というのがいて、一見すると表面上はふつうの人(社会人とか世間の人)でも、少し踏み込んで見ると皮の一枚下はキモチワルイ人だったりするのだが、このキモチワルイ人を人為で解決することはどうやらできないのだ、どうも経験的に「カミサマに出会って以降(かつそれを認め信じて以降)しか人は "人" になりえないようだ」と認めるしかない。
キモチワルイ人というのは一定のパターンがあって、つまりカミサマに出会えない人は、永遠に「お母さん」的なものを信仰するか、エセの「カミサマ的なイメージ」を信仰するかのどちらかなのだ、それは言い換えれば自分の魂の「帰る」先と言ってもいい/つまり「帰る」先が、アタリかハズレかしかない、そしてハズレというのは何か「母性的なもの」か「エセカミサマ的イメージ」かその混合ぐらいしかないのだ。
たとえばスピリチュアルにハマっている人というのは、カルト宗教屋と同じで、もれなくキモチワルイのが定番だが、それかエセカミサマ的なイメージを崇め立てて、けっきょくマジのカミサマとは出会えていないからだ/つまり、フローチャートとしてはシンプルで、1.マジに出会えましたか? 2.認め、信じられましたか? という二つしかない、ハズレのパターンも簡単で、まず出会えていないとハズレで、もし出会えたとしても、認めなかった・信じなかったでハズレになる、ハズレの行き先は母性信仰かエセカミサマイメージ信仰になる、別にハズレでも知ったこっちゃないのだが、ただ薄皮一枚の下はキモチワルイ奴になってしまう。

カミサマというのは、神秘的なイメージのブツではなく、融通の利く「現象」だ。

これまでの情報を統合する限り、人を媒介せずナマで直接カミサマ(というべき「現象」)に接触する例はとても少ないようだ、たいてい誰か手がかりになる「人」と出会ってから、初めて「人生」と呼んでいい現象がスタートするらしい/人生がスタートしないと、人はけっきょくよくわからないまま生きているだけの、「我慢」の生きものになるのだが、この「我慢」というのは、言い換えるとどうやら「要求」のカタマリでもあるらしい、つまり突き詰めれば「人生」を生きている人と「要求」を生きている人とに二分されると言える。
カミサマに出会わないと人は要求のカタマリ皮袋にしかならないし、出会っても認めるまでは要求カタマリ皮袋のままだ、たぶん要求で生きている生きものタイプは、要求なしに生きるということがさっぱりわからないはずだ、もしカミサマなんてものがいる(在る)のだとすると、人はカミサマから要求「される」側だと僕などは思うのだが、おそらくカミサマに出会ったことのない人は、漠然とカミサマに対しても自分が「要求」する感覚でいる、薄皮一枚下はそうして「要求が止まらな〜い」「だから我慢してまーす」という生きものでしかないからけっきょくキモチワルイのであった(我慢していても要求は消えるわけじゃないしむしろ皮の下で膨らんでいくだろう)。
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