☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< 或る微笑 | TOP | メンタルヘルスは軋んでナンボ >>
クラシックは「はっきりしている」から偉大だ

とえばピアノという楽器一つをみても、リストやショパンやラフマニノフなど、クラシックの連中はド天才なのだが、なにがド天才なのだろうと考えて、「そうか、はっきりしているのだ」と気づいた。
僕には音楽経験がロクにないし、音楽のセンスがあるとも思わないのだが、あくまで僕の個人的な感じ方として、たとえばリストの曲を聴くと、「この楽器からそんな音出ますかね……?」と疑わしくなってくるのだ/ショパンにしてもそうで、「この楽器からそんなに極端なバリエーション出ますかね……?」と首をかしげてしまう。
それに比べると、たとえばオシャレバーに行って、そこでオシャレジャズみたいなピアノがひっそり鳴っていると、なんというか、スタンダードナンバーやポップスを、ブルーノートコードで弾いているだけじゃないですかね、みたいな気がしてくる/それはそれで、オシャレバーというのはそういうものなのだからかまわないのだろうが、なんとなくおれ自身は、そういうのはイマイチつまらないなと思うのだった。
かといってもちろん、人が酒を飲んで与太話をしようというのに、横で英雄ポロネーズをがっつり弾かれたら困るのだが、とにかくクラシックの何がすごいかといって、あまりにも「はっきりしている」からすごいのだと思うようになった。

たとえばベートーベンの「月光」なんて、誰でも知っている曲だし、弾ける人にとってはそんなにむつかしくないのだろうが(第三楽章は除く)、それにしてもたかがピアノひとつで、「なぜそんなにコッテリした明瞭な世界が出ますかね?」と不思議になる。
そして、それが月光なら月光で「はっきり」しているということは、ある意味で「ダサい」ということなのだ、なぜダサいかというと、それはオシャレの反対だからだ、そしてダサいからこそすごい、偉大だということになる。
どんなものでも、あいまいに暈かして、意味をあるかないかにしてしまえば、オシャレふうになるのだが、クラシックはその真逆を行っている、だからすごいし、ダサいのだ、それが単なるダサさにとどまらず「偉大」にまでなるのは、もう音の向こうに「世界」があることを証してしまっているからだ、漠然としたあいまいな感触やニュアンスがあるのではなく、「世界」があるわいゴルァ、と証してしまうから、そこがエグくてスゲえのだった。
なんというか、「はっきりさせる」というのが、実は最終的に一番むつかしいのだと思う、どうしたってジェームスブラウンのほうが奥田民生より「はっきり」しているし、「ゼンダ城の虜」のほうが、村上春樹の小説より「はっきり」している、それはオシャレとダサいで分類するとダサい側なのだが、どちらがスゲエかというと、やっぱり「はっきりさせる」ことに成功しているほうがスゲエのだと気づいた、僕もぜひそちら側へ行き着く者でありたい。

あいまいでいる権利は、一般にはあるが、おれにはない。

物事や表現をあいまいにすると、オシャレに見えるし、何か奥行きがあって、思わせぶりでミステリアス、そしてカッコいい、ふうに見えるのだが、それはけっきょく、少なくとも僕自身を満足させるたぐいではないようだ、ジャズならジャズでビルエヴァンスのように「はっきり」とジャズならスゲエと逆に思うが、大半のオシャレふうのサウンドより、僕はケンタッキーフライドチキンのほうが偉大に思える、ケンタッキーは「はっきり」しているからなあ。
あいまいでいるのは、実は奥行きがあるのではなくて、単に「未決定」が大量にうごめいているだけなのでは、という気がする、優柔不断の物理的カタマリのような、そしてそうしたものが、一部の女にウケが悪く、一部の女にウケがいいのだ、そしておれはこのことにウケのいい女にあまり興味がないというか、おれは前者の女に愛されないと魂が萎えるのだった/この「はっきりしている」というのは割と特殊な感覚なので、ひょっとすると女の愛にもクラシックに向かう奴とモダンに向かう奴があるのかもしれない。

視点変えてこ | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |