☆いい女☆で行こう!

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祈りと祝福の原則/1.「何にもならない」ということ

「祈る」ということは、「何にもならない」ということ。
仮に、祈りによってアホが賢くなるとしても、「アホ」と「賢い」は同じでなくてはならない。
「アホ」と「賢い」に差分と善し悪しを考えるのは、人の業(カルマ)であって、カミサマのワザではないからだ。
この差分と善し悪しを考え、「マシになりたい」と願うことは、ただの願望であって祈りにはならない、何がマシで何が too bad かはあくまで人間の沙汰であってカミサマの沙汰ではない。

仮に「祈る」ことで、アホが賢くなったとしても、それは当たり前であり、何にもなっていないということ。
なぜなら、カミサマを仮定にも認めるなら、無限のカミサマにとってそんな徳性を拓くことは無に等しいことであって、それを「スゲー」と誇張するのは、逆にカミサマをナメていることになるからだ、われわれにとってスゲーことでもカミサマから見たら「はぁ?」ということでしかない、そうでなければカミサマを敬っていることにはならない。
仮に「祈る」ことで、アホが賢くなるのだとしたら、アホはアホのままでもカミサマのしもべ、賢いのは賢くなっても同じカミサマのしもべでなくてはならない、カミサマのしもべでないものは祈れないし、カミサマのしもべでないものには他者を経由しても祈りは成り立たない(当たり前)。
仮に祈ることで何か実際の作用があったとしても、それは当たり前だということ、その祈りや祝福に大騒ぎするのは、根本的に祈りと祝福の現象を疑っているからに他ならない、カミサマ視点からは別に「何にもなっていない」ので、そのことを人間視点に引きずり下ろさないこと。

すべては何にもなっていない、なぜならわれわれは元から「ない」からだ。

仮に「祈る」ということで、なんじゃこの景色、なんじゃこの風、ということが現れてきたとしても――あくまで「仮に」だ――、それはもとからそういう世界だったわけで、いくらでもありえる世界がもともとあったわけで、そこに気色ばんで見物と吹聴をする人間どもが邪魔を仕掛けるだけだ、自分で濁らせた眼球が晴れて「うつくしい!!」と吹聴するから、また眼球が濁りだしてしまう、テメーの眼球が濁っていても元よりこの世界はうつくしいのだから吹聴は的はずれだ。
すべては何にもなっていないし、仮に「祈り」から「祝福」が与えられたとしても、別に何もなっていない、そうではなく、いつも何かになってしまっているのは通常のわれわれのほうだ、通常のわれわれが勝手に世界をジグソーパズルに砕いて一部を組み立てて「ほら!!」と言っているのであって、何かをやっちゃっているのは祈りがなく世界から切り離されたいつものわれわれのほうだ。

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