☆いい女☆で行こう!

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祈りと祝福の原則/3.祝福と命はワンセット
ーセが祈りで海を割ったとしたら、それは人々を逃がすためだ。
何の理由もなく、「海を割りた〜い」と祈ったとして、そんなことをまともに「祈る」ということじたいが出来ないだろう。
「祈る」といっても、祈りは常に「命(めい)」とワンセットにある、モーセには人々を追っ手から逃がすという命があったから祈りによって海が割れたわけで、モーセが命を果たそうとせず自分だけ逃げようとしたら海は割れなかっただろう。
よって端的に言うと、祈りがバリバリ通じ、祝福がバリバリ注がれるのは、やるべきことをバリバリやり、命をバリバリ果たそうとしている人だけだ、ポカーンとしているお花畑の人に祈りも祝福もない、そんな人は別段祈る用事がないはずだ、そうして祈る用事がないという状態のほうがまずい。

祈りは必ず、生きものとしての限界に直面して現れてくる、生きものとして歩ける限界に直面して、人は電車に乗るように/モーセだって、自分を含めた全員が渡り鳥だったら、海が割れるように祈りはしなかっただろう、「生きもの」の限界に直面したから、もうしょうがない、そうでないものの力を借りるしかない、という形で祈りは生じてくる。
よって、まずは自分のやるべきことを――「命(めい)」というのが、あるのかないのかはわからないが――やるしかなく、けれども小さな一匹の生きものとしては「初めから無理だとわかっています」ということがあり、だからこそ祈るということが出てくる/何の主体性もなく、受け身の発想で「祈り」というのはありえない、<<「祈り」は受け身とは正反対の発想だ>>、受け身とは生きもののことであって、すべての生きものは快適な生存を与えられているかぎりは自らピクリとも動こうとしない。
自分のやるべきことが、生きものとして欲しているという小さなことでなく、カミサマの主体性と合致している主体性のものであったとき、「自力では無理なので」という要請が通り、祈りが通じることになる、自力の大小は問題ではなく、カミサマから見れば人間の自力など大小どちらでも無でしかない、それで「自力では無理なので」という要請が通ると、祝福と共に「これをしなさい」という命が与えられる/つまり所詮はカミサマの主体性を代行すると認められるから祝福の決済がおりるにすぎない、モーセの行為を本社側が代行と認めたから経費で海を割れたというだけだ。
よって、そのように祝福と命はワンセットとして、初めから万事「自力では無理っす」ということを宣明したほうがいい、つまり「やりまっせ〜ただし自力では無理ですわ〜」ということ、この逆が最もよくない、生きものの用事以外はけっきょくやるつもりがない上に、自分の自力がそこそこ強いと思い込んで傲っているのに、厚かましくも「祈り……(遠い目)」みたいな風情をやることだ、このパターンはガッチガチに呪われるので、本当に祈りなんか考えないほうがいい、「自力パワー!!」だけで砕け散ってガタガタになるほうがまだ笑えるだけ呪いから無縁だ。

主体的に生きている奴は、自動的に毎日祈りたおしているはずだ。

主体的というのはつまり、誰からの指示も待たず、誰にも「空気を読ませる」というような卑怯をやらないということだから、そんなもんふつうの人間には「無理に決まっている!!」、にもかかわらず果敢にもその矢面に立ってごまかしのない奴は、そりゃもうどうしようもない、だからそいつは毎日祈りたおしているはずだ、そしていつもギリギリ「なんとかなった」「なぜか知らんがなんとかなった」となっているはずだ、他でもないそれが「祈り」と「祝福」という現象だということ、主体性の煉獄に立つ奴ならこのことを知らない奴はいない。
もし逃避行をしくじった場合の、モーセの寒さと責任のことを考えてみろ、人々を先導した上に追い詰められて「おいおい……」てなもんだ、誰に頼ることもできないし誰になすりつけることもできない、そして失敗したらリトライやらリベンジやらの眠たい話ではない、だからモーセが常時祈りたおしていたのは当たり前だ、そして海に直面してなおも祈りたおしていたら「なぜか知らんがなんとかなった」のだ、われわれは海を割るような大きな「奇蹟」ほどは得られないかもしれないが、ささやかなことならよくよく見ると祝福はちゃんと与えられている、それはわれわれの命と祈りのサイズに相応しているものだ。
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