☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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同時性(当たり前 ver.)
とえば「水中で水を得る」のは、当たり前以上に「同時」だ。
水中といえば水の中なのだから、「水中」と「水を得る」はほとんど同義だ、そこにタイムラグはない。
タイムラグはないどころか、感覚的には「前もって水を得ている」というような状態、つまり "先に未来を獲得済み" という状態でさえある。
このところ、「祈り」の話をしているが、 "祈り求めると必ず与えられる" という場合、「祈る」と「与えられる」は同時でなくてはならない、そこにタイムラグがあるのは空想であって祈りではない。

あくまで「祈り」が存在する世界を仮定して話している/こういうときフィクションは便利だ、「フィクションだから」といえばどんな話でも通る。
「祈る」と「与えられる」は同時であり、そこにタイムラグはない、少なくともフィクション上、祈りを考えるときはこのことを知らねばならない、ムンムン念じてからパンパカパーンとプレゼントが与えられるのでは話があまりにアホすぎるだろう。
つまり、フィクション上であれ「祈り」を考える場合、祈りと祝福は "因果関係で生じない" ということだ、コショウを吸引すると直後にくしゃみが出るというような因果関係ではなく、祈りと祝福は「同時」であり、祈った後に祝福が与えられるわけではない。
では、因果関係でないなら何なのかというと、あくまでフィクション上、それは直接「信じる」ことだ、ということになる、たとえば原稿用紙の一マス目に「雨」と書くと、それは雨にならざるを得ない、雨と書いてからタイムラグでフィクション上の雨が降り始めるわけではない、雨と書けば同時に雨にならざるを得ない、それが言葉であり祈りだ。

疑いとは「因果関係」を信仰することであり、信じるとは因果関係のすべてを否定することだ。

よって、祈れば与えられるという説を因果関係で捉えることは、フィクションにおいてさえ誤りとなる、同時性(時間ゼロ)の中に因果は生じ得ない/一般に、「祈れば与えられる」などという話は、「そんな都合のいい話があるか」といって、つまりいわゆる「神の沈黙」ネタとして一蹴されるのだが、それは「祈れば与えられる」ということを因果関係で捉えているので、その場合は一蹴されるほうが正しい、因果関係として考える以上それは "疑っている" ということだからだ、それで「信じて祈れば与えられる」という説とも整合する。
原稿用紙の一マス目に「雨」と書けばただちに――同時性として――雨なのだが、それが祈りだということはどうしても理解されにくい、「それは小説というか、あくまで作り話の中でのことでしょ」ということになる……こうして一般には、 "因果関係がすべてを確実に支配している世" ――つまり神の不在確実の世――が信じられ、すっかり出来上がっているので、祈りうんぬんはもはや考えられることがない/もちろん、因果関係で「祈り」に期待するようなら、そんなもん考えないほうがいいのだ、因果関係で祈りと祝福を考えるなんてただの妄想に決まっている(かといって、ふつう人は、因果関係を超えた事象なんて仮想にも思考できない)。
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