☆いい女☆で行こう!

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オカズのある男はけっこう幸福

少年向けに、次々に乳デカ尻見せ女の記号が、アニメ等で大量生産されているのを見ると、やはり「こうまでして男は女を必要としている」という感を受ける。
そして同時に、男というのは、ついにシンボル的に女を得られたら、それでなんとかやっていけるのだと思う/逆に女のほうは、けっきょく生身の男の存在が必要で、シンボル的に男をあがめてもそれだけでは満たされないようだ、それがなぜなのかはわたしにはわからない。
男はけっきょく、おっさんになっても、アニメ化・記号化した女をシンボルにしてオナニーしていれば割とやっていけそうなのだが、女はどうもそうではないらしい、女がオバサンになってアニメ化・記号化した男をシンボルにしてオナニーというのは厳しいようだ、だからおばさん向けの生身アイドル男は存在しても、おばさん向けのアニメ記号男は存在しない。
男には、自らセックスを仕掛ける主体性がある(つまりペニスがある)ので、記号化した女をシンボルにして空想上でセックスできるが、女には自らセックスを仕掛ける主体性が具有されていないので、記号化した男をシンボルにして立てているだけでは、空想上でセックスできないのだ、女がセックスを空想するには「男」という記号描写だけではなく「セックス」という行為そのものの描写が必要になる。

かといって、「男」が別の女とセックスしている描写を元にオナニーはできないので(それでは自分がアホらしすぎる)、「男」が別の「男」とセックスしている描写を求めることになる、それで昔から腐女子と呼ばれる女性たちが大勢力として生じる。
わかりにくいだろうか? まあこんな話、わからなくていいのだが……わかりやすく言うと、男には「女」という記号だけで足りるが、女には「セックス行為」の記号が必要だということだ、だから男どもが女記号に拠ってオナニーしている絵面には一種の気楽な笑いがあるが、女たちがセックス記号に拠ってオナニーしている絵面には一種の不具めいたシリアスさが伴う。
男にも女にもいわゆる性欲はあるだろうが、その形態が異なっているのだ、男は「女」という記号に向けて性欲を覚えるのに対し、女は「セックス行為」という記号に向けて性欲を覚えている/男の前には女を置いておけばそれだけでムラムラするのだが、女の前には男ではなく「セックス行為」を置いておかないとムラムラしない、それで自然に、女は男記号と男記号のセックス行為を空想するようになる。
ヘンな例え話にすると、われわれが釣りキチではなかったとして、目の前に大きなマダイの写真をおかれても、それは食材として「おいしそう」と見えるだけで、釣りを「ヤリたい!!」とはならない、ところが釣りキチというのは釣り竿を具有しているものだから、大きなマダイという記号を見ると釣りを「ヤリたい!!」となるのだ、そして釣りキチでないわれわれがふと釣りを「やってみたい」と発想するのは、「魚」を見たときではなく「釣り」という現場を見たときだ、目の前で釣りをやっていたら「わたしもやってみたい」とムラムラする、このように同じように見える衝動でも実は機構や形態が異なっているということがある。

男はオカズだけで幸福になれるが、女はオカズだけでは幸福になれない。

なんというか、ここに日本刀と鞘を空想するとして、「日本刀だけ実物があって鞘を空想して納刀する」ということと、「鞘だけ実物があって日本刀を空想して抜刀する」ということとでは、どうしても後者、鞘しか実物がないというのは空虚だ。
というわけで、こんな話を理解しても何の足しにもならないのだが(すまん)、あくまで青少年は、そうまでして女を求めていて、実は女の記号を得られているだけで、それなりに幸福になれるのだった/こんなことはあくまで若いうちの話であって、大人になってから考えるようなことではない、つまりそのまま二十年ほど放置しておけば解決も必要なく消えていくので、もともとどうでもいい話なのであった。

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