☆いい女☆で行こう!

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カミサマに見捨てられぽんち
リスマスはただのイベントになったし、「青春」はSNSに写真をあげる演出ごっこになった、セックスはナゾの陰部遊びになったし、「好きな人」はただの自分の「萌え推し」になっただろう。
かつて、クリスマスは前後を含めて特別な日々だったし、元日の昼に届く年賀状には特別な風情があった、青春は確かに胸に刻まれて、照れくさくて誰にも言えず抱え続けるものだった、好きな人は自分の生きた時代を定義するような存在だったし、セックスはときに「これでもういつ死んでもいいや」と痛快に空まで笑えるような何かだった。
すべての歌曲は、ただの気分操作BGMになっただろう? 刺激的なワードセンスや打ち込み系のドラムンベースで「まじキてる」と言いながら二ヶ月後にはまるで飽きたゴミになっただろう、なぜこんなことになったかというと、ずばりカミサマに見捨てられたからだ、「見放された」でも同じ意味だ。
かつて、クリスマスにはクリスマスのとんでもない夜が覆い被さり、元日には元日の強烈な晴れやかさが光り、青春の切なさは永遠であってよい何かをそれぞれに教えていった、が、これらはすべて、人の感情ではなく、人為的なものではなかったということ、「世界」から与えられた何かだったということだ、今はそれがまったく与えられなくなったので、人が人為的にイベントや演出をこしらえまくっているのだが、それらがけっきょく何にもならないということは、実に人為とカミサマのものとの違いをはっきりわれわれに教えている。

あなたの「手料理」は、コンビニのレトルトハンバーグより美味しくないだろうし、あなたの唄う「歌」は、ひどくひねくった自己陶酔の性根を露見させるだけのものだろう、あなたがする勉強はまるでWikipediaの丸暗記合戦でしかなく、あなたにとっての「街」はただウィンドウショッピングであなたのカネを巻き上げる装置でしかない、あなたの街には何の風も吹いていない。
あのときの自分と共にある「この道路」とか「この坂道」というようなものはなく、あるのはただの記憶だ、あのときの「場所」や今の「場所」はない、思いついて手書きで手紙を書いてみようと思うが、手書きのものにもアイコンや絵文字をてんこもりにしないと文章が書けないことに気づく。
その点、おれがクリスマスに街中を歩けば、おれの上には確かに特別な夜が覆い被さっていて、街には街の特別な風が吹き抜け、お酒は商品ではなくなり一種の宝になる、そこにBGMではなく「音楽」が流れているのがわかる。
なぜこんな差が出るかというと、おれはカミサマに見放されていないからだ、はっきり言っておく、おれはカミサマに見放されていないが、今、十四歳の処女中学生はカミサマに見放されている/みんなカミサマに見放されているからこそ、人為的に自分の「イメージ」を演出しているんだろう? そんなことをいくらしたって、神聖な夜や特別な風は戻ってこない、むしろこれまでに一度もそんなものは与えられたことがない人のほうが多いのだろう。

おれは立っているだけですべてのものに出会えるが、あなたはどう演出しても生涯なにひとつにも出会えない。

カミサマに見放されるというのはそういうことなのだ、「ぽんち」は正式な日本語だからこのときは「見放されぽんち」としておこう、このことの解決に焦っているのはあなたではない、解決に焦っているのはおれだ、だからカミサマはおれを見放さない。
解決の糸口、およびその早道は、ここに書かれていることを「そのとおりです」と肯うこと、そのときにザワッと起こるグラつきを体験せよ、それが体内にひしめいている悪霊みたいなやつだ、そこで得られためまいのような特別の感触を、ためしに今度は「わたし(の力)かな」と言って見ろ、そうしたらグラつきは止まり、またいつもどおり何にも出会わない世界に戻る(つまり見捨てられぽんち状態に戻る)/このとき何が起こっているかなど、到底あなたにはわからない、わたしが宗教洗脳をしているのではない、あなたがやがて年を取るとありふれた宗教洗脳に引っかかるよということを警告、ないしは予言しているのだ。
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