☆いい女☆で行こう!

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慾望の資格とまともな国2
番ダメな慾望のケースを見てみよう。
それはたとえば、風土的にド田舎の地域があって、そこで地元だから顔の利く・幅を利かせているおじさんやお兄さんが、地域の女を手込めにしたいというパターンだ、これを「慾望」と言い出すことが、一番ダサくて醜悪になる。
なぜならこのおじさんやお兄さんは、地元の外側、共同体の外側に行けばまったくモテないし女なんか口説けないのだ、つまり地中海沿岸の町にいってウブな中学生をからかうことさえできないということ、それは彼らに力がなくてただ土着の「権力」だけがあるのを、自分の実力と誤解しているのだ、こういう人は本当に近所迷惑になる。
そして、このおじさんやお兄さんたちが、自分の住む地域を「未開の哺乳類の群れ」と自ら言うならまだ話はわかるのだが、こういう人に限って自分の住む地域をまともな「国」だと言い張りたがるのだ、まともな「国」ならそんなわけのわからない慾望とセックス希望は成り立たないのだが、とにかく自分には力も愛もないことを認めたがらず、さらには自分の地域が未開の群れだということも認めたがらない、こうして無数の近所迷惑と無数の閉塞的地域が生産されてしまうのだった。

慾望を言いたいのなら、そんなもんB’zの歌うように、「愛のバクダン」を落っことしてやればいいのだ、ただし愛のバクダンは街のド真ん中に落とすものであり、身内のド真ん中に落とすものではない。
街というのは自分にとって隣国だから(街が自宅の奴はいない)、その隣国にバクダンをぶっこむということ、そうして攻め取った国の女に愛されるということ、それなら慾望というのも正当でうつくしく、何の咎があろうかという話だ/この愛のバクダンを街のド真ん中に落とせない奴が「慾望!」とか言い出すからおかしくなるのだ、日本中がド田舎の哺乳類の群れになってしまう。
隣国に愛のバクダンをぶっこむなんてことはできないという人が、それでもまともな「国」においてセックス相手を求めるのに、長老と神職の承認のもと「婚姻」の制度に準じるというのは、何もおかしなことではない、ただこれも当人がありもしない自分の力や愛を言い張ると話がおかしくなる。
慾望が肯定されるのは、「誰が世界を与えたか」という一点によるのだ、まともな国がまともな世界を与えていた場合、それを与えたわけでもない者が「慾望!」なんて言い張れない/男であれ女であれ、慾望が肯定されるのは、相手から見て「この人がわたしに世界を与えてくれた」と認められる場合だけなのだ、それに比べると地域や共同体で幅を利かせているおじさんやお兄さんは、一体どこの誰にどのような世界を与えたというのだろうか、こんな者の「慾望」が肯定されるわけがない、そんなことは自分で考えてもわかるはずなのだが、それを考えないというのは、けっきょく当人の知性が未開の哺乳類状態だからなのだ。

尾崎豊がどの女と寝ていただろうかという空想は、圧倒的な「どうでもよくない?」に消し飛ばされる。

当時、どれだけ多数の少女が尾崎豊によって世界を与えられたかわからないが、その愛のバクダン野郎がどこの少女たちとどれだけ寝ていたとして、完全に「どうでもよくない?」としか思えない、慾望が肯定されるというのはそういうことで、仮にアイルトン・セナがグランプリのあと一晩200万円のコールガールを呼んでいたって、そんなことは誰も何も思わない。
慾望というのは、そうして正規の場合は認められるのだが、なぜ正規の場合は認められるかというと、明らかに慾望が当人を支配していないからだ/慾望が禁忌とされるのは、慾望が当人を支配してしまって魔の拠点になるからというのが理由だ、じっさい共同体の幅利かせおじさんなどは、本当に慾望に支配されて魔の拠点になってしまっているから、自分の発想についてミエミエの「んなアホな」ということさえ考えられなくなっている。
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