☆いい女☆で行こう!

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WS報告081(2)/いいことをじゃんじゃんやれ
「いいことをじゃんじゃんやれ」、それは自分が苦しみから逃れるためだ/いい人になるためではない。
いいことをじゃんじゃんやるのだ、「いいこと」が視えていれば、そこに躊躇を覚える必要はない、そして躊躇がないなら速くかつストレスがないのであって、それは必然的に「じゃんじゃん」やることになる。
だから、「いいこと」とは何か、ということの定義と視力が大事なのだ、「いいこと」がもし視えるなら、誰もそんなことに躊躇しない、だが実際には何が「いいこと」なのかわからないのだ、だから躊躇してモゴモゴするしかなくなる。
道徳では、一般に「いいこと」を弱者救済と相互扶助、ボランティアやチャリティや利他主義に定義するのだが、それはもちろん大昔にニーチェにインチキを指摘されているので破綻している、よりにもよってニーチェごときに指摘されて破綻するということに恥を覚えねばならない、ニーチェって歴史的にあんまり頭のいい人じゃないぜ。

「いいことをじゃんじゃんやれ」「それは自分が苦しみを逃れるためだ」「そしていいこととは苦楽を信信することだ」「クラクをシンシンすることだ」、まったく一方的な言い方だが実際にはこれらの文言だけが役に立つ。
たとえば、女性とデートすると楽しいからデートする、そして、話が合わなくなると楽しくなくなって苦しいから別れる、こんなことを繰り返していたらまさにクソの日本代表みたいになってしまう、だからクラクはシンシンしなくてはならない、楽しくてもシンシンすればいいし、苦しくてもシンシンすればいいのだ/そこに得られるべきは「楽しかった」ではなくて「あの人がいた」「あいつがいた」なのだ、それはつまり信じるところのものが得られたということに他ならない。
どのようにしてクラクをシンシンすればいいのか、ということになるのだが、そのためにはあるていど苦楽の前線に立つ必要があって、前線に立ってまざまざと苦楽の威力を直視する……のだが、直視するとふつうは苦楽に取り込まれて終わるだろう、ふつう勝てない、勝てないからこそ直視しないようにしているのだ。
苦楽を信信するといって、そんなことの具体的な方法はない、手取り足取りなんかやりようがない(当たり前だ)、必要なのは具体的な方法ではなく「自分が苦しみから逃れるため」という真相だ、苦楽じゃなくて信じるところをやれといっているのであり、これに疑義を挟む者は、その疑義という「疑い」を持ち込んでいるので、そもそも「信じるところをやる」ということを破壊することを前提にしているのだ、それは自分が知らないレベルでの魂の汚染であり魔物の悪意だ。

「いいこと」を見失っている奴が、「いいこと」を審査することじたいが馬鹿げている。

トルストイがとっくの昔に言っているようなことだが、定義を見失っている奴が定義を審査できるわけがないのだ、言い方は悪いがたいていの頭の悪い人はこんな単純な循環にさえ気づかないし脱出できない、そして脱出できない自分をなぜか頭がよくて理論的だと思っているのだ/違う、頭がいい奴は初めから脱出している、脱出できていないのはどう弁解しても「アホ」の一点に尽きる。
いいことをじゃんじゃんやれ、「いいこと」とは「クラクをシンシンする」ということだ、それがわからないと感じる人に対しては、「残念ながらあなたをやっつける人はいません」と言っておこう、そうすると期待が外れるだろう? だが残念ながらやっつけてくれる人はいないのだ、あとはただおれがいいことをじゃんじゃんやりつづけるという実績だけが残っていく、おれは苦しみから逃れたいのだ、フルオープンした苦楽を直視してなお絶縁を得るなんてとてもじゃないが現在のおれではまだまだ太刀打ちできない。
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