☆いい女☆で行こう!

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密接する神
・カミサマというと、遠いイメージだ、確かに無限の天高くにいないと話のつじつまが合わないと思うが、実際に神に触れるということは、衣服より近く神に密接するということだ/無限に遠いといってもその存在は無限にデカいのだから神は接触としては至近距離にある。
至近距離も何も、神が存在する場合、その存在は満員電車のように自分の全面をグッと圧迫していると見てよい、そして人から見たとき神の存在は厳しく、一方で神から人に向けられているのはやはり許しでありやさしさだ/それは「実際にそうだ」としか言えないのでこれ以上の説明はできない、おれは何かのテキストを参考にしているわけではない。
主なる神という言い方があるが、神というものがあるとするならばそれはまさに主体なのであって、この隠された主体を現成せしめよ、という命が発されている、発されているというか、「命」というとこれしかないのだ、この主体だけが命を持っている。
生きているわれわれの肉体の側には「命」はないのだ、つまり、われわれの目の前には常に「命ある主体」がデーンと存在しているということなのだ、これはセンサーには掛からないし、質量をもたないので検出はできないのだが、どうやらやはりそれは「ある」のだ/おれに会ったことのある人は大半がナゾの「???」という感覚に襲われると思うが、それは目に見えない「命ある主体」と、その従僕である肉体とに同時に会っているからだ、だからえげつないほど厳しいような、同時に根本的にやさしいようなナゾの感覚に見舞われるのだ。

キリスト教的には「主の御名を称えさせたまえ」という発想になるが、それはつまり「神っていいよね」と発言するということになり、まあこんなテキトーなことを言っていると怒られると思うが……神の御名というのはおれにはよくわからないしうかつにその名前を言いたくはないような気もするが、それはときに「音楽っていいよね」みたいな形で現れる、それはあくまで部分的な現れ方でしかないとしてもだ、景色がよかったり光がよかったり、夕焼けがよかったり、とにかく何かがよかったりする。
どれだけ演奏技術が高くても、音楽としてはまるでダメというか、ダメというよりは「要らない」と思えるものはいくらでもあるし、「いいよね」といえば、たとえば「いい匂い」などについては本当に何が「いい」のかはさっぱりわからない、が、いい匂いというのはときにとてつもなくいい匂いだ。
おれが目撃する恐怖のシーンは、しばしば別のタイプの人が、そうした「いいもの」を、自分でイメージして自分で作っていこうとすることだ、それはつまり人である自分が神をイメージして創造しようとしているということになる、そのとき自分は神以上の存在だろう、そしてそうして自分で身分を爆上げする行為だから、当人は気分がよくなって盛り上がってしまい、引き返せなくなるのだ/こうした人には取り巻きがそれなりにいるが本当の友人は一人もいない。
神は目の前にあって、ぐいぐい圧迫してくるので、その作用は人に対して「インプット」だ、神(out)→(in)人という感じだ、ただしだからこそ神と人は厳密に絶縁され区切られているとも感じる、厳密に絶縁されて「こちら側には主体はない」ということが明らかになる、対しておれとは逆のタイプの人は、自分から何かに向けて「アウトプット」しているのだが、それは行き着くところ自分から神をイメージして作っているということになる、これはとてもやめにくいことなのだ/おれがここに書いているのはアウトプットじゃない、よい文面がおれを圧迫しておれに対してインプットなのであり、おれから何かをアウトプットするというようなイメージ創作ないしはイメージ捏造のようなプロセスは一ミリもない。

果実は神のものだ。

果実は神のものであり、やはりこちら側に主体や命はないのだ、だからわれわれが主体ぶることや命ぶることは必要ないし、害悪なのだ、いい匂いやいい音楽の側――果実の側――に主体と命があるのであり、樹木に相当するわれわれの側には生があるのみであって主体や命はない。
各種の宗教で、「主の思(おぼ)し召し」という言い方があるだろうが、おれは宗教はキライだ、おれが言っているのは主体という現象についてであって、主体より宗教を大事にするトンチンカンには多大な距離を感じる、あきらかに「主」よりも「宗教」のほうが大事なんだろそっちの人たちにとっては/おれが言っているのはそういう宗教くさいことではなく、「主体の思し召し」というナゾの現象が結果的にあるということなのだ、そんなものあってもなくてもどうでもいいと言いたくなるのもわかるが、そうはいかない、なぜならわれわれが本当に「いいよね」と言いうるのはすべてその主体の思し召しがありうる果実だけだからだ。
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