☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< 死にたいぐらいうらやましくて、なおそれ以上に辛いこと | TOP | 愛されているからテンションが上がる >>
この世界はわたしである/正しいと思うことを捨てよ
象的な意味でなく、愛がすべてに先んじている。
分離的に、自意識の対象を「わたし」とする習慣が、いわば「愛の反対」であり、愛とはその反対の反対、自意識の対象をもたない「わたし」のことを指している。
聖書に書かれている、 "汝のごとく" 汝の隣人を愛せということだが、これに先立っては「第一に父なる神を愛し、あくまで第二に隣人を "汝のごとく" 愛しなさい」と書いてある、なかなか正確で慎重な記述がされている(当たりめーだ)。
われわれは漠然と、「無我の境地」みたいなことをイメージしており、「無心」みたいなこともイメージしているが、そうして安物にイメージできるものはたいていどうしようもない安物でニセモノなのであって、そうではない、無我ということに値打ちはないのだ、無我ではなくて全我ということに値打ちがある、無我なんてものは老人が行き着いて「無じゃん、死ぬだけじゃん」と思い込んでしまうたぐいでしかない、これは年齢的に老人でなくても精神が老いれば十二歳でも同じ心境になるのだ。

この世界のすべてが「わたし」であり、だからこそ生きる値打ちがあるというか、そうでない世界に長生きする値打ちなんてあるわけないのだが、それでも食い下がって「愛の反対」、愛の反対である自意識だけをなんとしても死守したいという人も少なからずいる/あるいはその習慣づいた根性は、サタンのように多くの人々の性根にそれなりに棲みついてしまっているものだ、これはホントに何の役にも立たないのですっぱり消えてしまうほうがいい。
それを死守するというのはけっきょく、最後は「サタン様、死守」という自己決定になってしまうのだが、できれば最後までそれで突っ走ってしまうよりは、途中であっさり改めてしまったほうがいい、サタン死守の信仰は「習慣」によってしか成り立っていないからだ/そしてなぜそんな習慣が出来上がったかというと、ガキのころにいくらかサタンへの肩入れで表面上「助けられた」「力を与えてもらった」と感じているからだ、それを大人になってまで続けるのは痛々しいのだが、こうした習慣から個人というのは離れにくい。
正しいことが何なのか、わかっていれば誰も悩まずに済むし、誰も迷わなくて済むのだが、そうはいかないのだ、われわれは決まって「正しいと思っていること」を所有しており、これらがことごとく誤っているものだから、その誤っている正しさを信奉して、いくらでも迷子になってしまう/われわれは正しいことと誤っていることが「分離的」に存在していると思っており、だからこそ「分かっている」つもりでいるのだが、そうではないのだ、すべてがわたしであるこの世界には、正しいことのみが存在しており誤ったことは存在していない、誤ったことが存在するという習慣的仮定が、もう本来の正しいことの一切をわれわれに与えないのだ。
遠く、電車が線路を走る音が聞こえてくるが、これはわたしがわたしを体験しているにすぎず、わたしが電車の音を体験しているのではない、世界のすべてはわたしなので、わたしから分離された電車の音は存在しておらず、電車の音から分離されたわたしも存在していない/だがどーしてもこのことが気に入らないという人が少なからずいるのだ、それが習慣的にサタンを信奉しているということだが、それはホントに何の役にも立たないのであっさり改めてしまうほうがいい、サタン信仰が悪いというわけではないが、単にサタン信仰には「命がない」ということ、命がないということは存在していないということだ、この世界には誤りはないけれどもサタン信仰は「この世界にいない」ということになる、世界のAとBという区分があるのではなく、世界といえばAしかないのだ、その世界にないものは何なのかというと、世界にない以上は「何だとも言えない」ということになる。

おれの言っていることは、「食べ物はすべて食べられるもの」というだけのことだ。

「食べ物」という世界があるとすると、その世界にあるものはすべて食べられるもので(当たり前)、食べられないものはその世界にない、一方に「食べられない食べ物の世界」があるわけではない、食べられないものは食べ物じゃないんだから無理言うなということだ/「命ある世界のすべてには命がある」ということで、一方で「命のないものの世界」が存在するわけじゃない、命のないものは世界とは呼ばない、ここで言っている「命」とは生きものことを指してはいない。
「わたしのある世界のすべてにはわたしがある」というのも当たり前で、世界のすべてにわたしがあるのならば「世界のすべてはわたし」「この世界はわたし」ということで当たり前だ、わたしはわたしの言うことしか聞く必要がなく、イコールわたしは世界の言うことしか聞く必要がない、そのことがどーしても気に入らないという人もいるのだが、そうした人たちの言うことにいつまでも耳を貸すふりをしてはいられない、いわばおれは人々のサタン信仰を "無視" して話し続けているということになる、存在していないものを無視するのは当たり前というか、存在していないものに配慮するというのは無理なことだし、何よりそのことが相手に対する不幸になってしまうから、おれはなるべくそういう悪趣味なことはしたくないのだ。
正しく見ないとな | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |