☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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バンザーイ/一瞬ごと神がいる、結合は一期一会ごとの命

には分割の能力しかない、「分かる」の能力しかない、結合の能力は神にしかない、神は一瞬だけその奇跡を慈悲か憐れみでわれわれに与えてくれる。
たとえば結婚などは、社会的にはどうあれ、神学的には初めから破綻している、なぜなら、人が人の「結婚」を定義できないから何かしら神の前でその儀式をするのだが、キリスト教の場合イエスキリストは「神の国では誰も結婚なんかしていない」と言っているし、「誓いを立てるのはダメです」とも言っている、「誓うことで自分の言っていることの価値を水増ししようとするな」とキリストは言っているのだが、そんなことを言われたらもう人類の結婚文化はメチャクチャだ/これではまるで不倫で騒いでいるわれわれがアホということになるではないか、「神の国では誰も結婚なんかしていないし、誓いを立てるとか基本カスやで」と聖書に書いてある。
ともあれ、おれが新しく知った、あるいは確信したことは、人には何かを「結合」する能力はないのだ、結合の能力は神にしかなく、われわれはアホなので、その結合の現象を記憶し、その記憶したものを概念にしてなぞるだけなのだ、ちょうど習字の手本をなぞるようにだ、だからアダムとエヴァの神話から「伴侶」を概念化してなぞって婚姻の様式をつくるのだ、それが社会的にはどうであれ神学的にはアホということになってしまう。
結合は神にしかできなくて、だからこそ結婚式は教会でやるのだが、教会でやったってけっきょく人の手では結合はできないわけだし、だから苦し紛れに「誓い」をやるのだが、それも救世主にカス呼ばわりされるわけで、そもそも神が結合を為すのであれば人がいちいち儀式をやる必要はない、だからどうなっているかというと、そこのところを強引に神父か牧師にすべてのレスポンシビリティをなすりつけているのだ/こんなことを書き話しているとおれはバチカンから暗殺者を送り込まれて殺されてしまうのだろうか。

おれが書き話していることのヤバさは、内容ではなく、ひとつひとつの言葉が何ら記憶によらず、また文章の構築も何ら記憶にも概念にもよらず為されているというところだ、これは一語ごと・一瞬ごとに神がいるということだ。
おれは人であって、人であるおれにはこれらの語を結合する能力はない、結合する能力はないからふつう、結合の現象を記憶して概念化してそれをなぞるということを人はするのだが、おれはそれを記憶したり概念化したりという手間、つまり根源的な人の「ノウハウ」の一切を持たずこれを書いているのだ、十数年も書き物を続けているのにノウハウゼロというのはある意味ブッ壊れているのだと思う、白い画面にテキストを入力してゆくとして、白い画面と一字ごとも結合してゆかねばならないが、その結合だっておれにはできないから、結合の能力者たる神がやっている。
おれはいちいち神に祈っているつもりはないのだが、けっきょくのところ、おれは奇跡以外には何の興味も持てないのであって、おれが何かを続けているということは、奇跡が続いているから続けているということなのだ、奇跡だけが続いてくれないと、人のやることに対する関心なんておれは五秒ももたず消えてしまう、結合はすべて神の能力であり奇跡なのだ、おれのわけのわからない話は、おれが何らノウハウも記憶も概念化もなしに書いているからわけのわからない話として出現するのだが、いつも自分で眺めながら「文章になっていくのは不思議だなあ」と思っている、この一語ごとに神の結合能力がはたらいており奇跡なのだ、そうでなければおれはソッコーでこのつまらんことを投げ出すだろう。
すべてのことは、一瞬ごとに一期一会なのだ、歌があったとして言葉と音階とリズムが結合するのはその瞬間だけの奇跡であって、人が結合させているのではないのだ、だからいくら人が練習しても歌というのは上手くならないし値打ちが生じないのだ、おれはおれのものを人に自慢げに見せたことはなく、偉大なるおれさまの奇跡だけを自慢げに人に見せている、その偉大なるおれさまの奇跡とはつまり一瞬ごとの "結合" なのだ、すべてのことが一瞬ごとの一期一会で、なぜか知らんがおれはいつのまにかそれが当たり前になっていた。

<<私は、罪に満ちておりますゆえに、誤った様ざまな考えから逃れることができません。しかしこの仕事を偉大な美しいものとする営為において、真にあなたの召使いとさせてください。そしてもし私の動機(モティーフ)があいまいであり、楽音(ノート)がばらばらで意味をなさぬことしばしばでありますなら、どうかそれを私が秩序づけうるようお助けください。 or I am lost……>>/マルカム・ラウリー「泉への森の道」

大江健三郎「新しい人よ眼ざめよ」から引用した/ずっと気になっていた詩句で、まあわかるようなわからないような、という詩句だったのだが、今になってはっきりとわかる、楽音が「バラバラで意味をなさぬ」ということ、これを結合してくれるのはカミサマだけなのだ、これを結合してくれるのはカミサマだけなのに、われわれは<<誤った様ざまな考えから逃れることができません>>。
岡本太郎は「芸術は爆発だ」と言った、爆発というのは基本的にコナゴナのバラバラに破壊する現象であるべきだが、それはわれわれの「分かる」という能力が、いかに結合ふうに固めてみても、「けっきょく "分" だからコナゴナのバラバラでしょ」ということへ急速に回帰させて認めさせるということへ芸術の原理を紐づけているのだ、岡本太郎はそこからあくまで神ではなく人を見出して、神ではなく「呪」そのものに向き合っていくという実に人間らしい向きを見せたが/人が固めたつもりのものなんてけっきょく元よりコナゴナのバラバラなのだから、そんなもんズバーンと、ところがそこから瞬間ごとナゾの結合に助けられて救われて、「おかしいだろ、なんでお前はハッピーなんだよ……」ということになる奴がいるのだ、一瞬ごとに神がいて、一瞬ごと、一期一会の結合がある、これがどうやらわたしが「命」と呼んできた現象の正体だ。

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