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WS報告 173rd /エネルギーを示した日々にせよ

ークショップ報告が飛び飛びになって申し訳ない、まあ今のところオンラインだからしゃーない、今回は「エネルギーのない奴は話にならんでしょ」ということをやった、正しいタイトルは「愛と命とエネルギーと拒絶」だ。
その前日は「お前ン中の聖書と仏典」と題し、旧約聖書と新約聖書と仏典の話をしたのだが、さすがに二夜連続こんなわけのわからないことを朝までやると、最終的には倒れこんで動けなくなってしまった、エネルギーの枯渇というか、やはり前にも言ったようにわけのわからない魂の使い果たしがある、「ちょっと休憩しまーす」と宣言して休憩したとたん意識を失ってしまった。
エネルギーの話をして、たとえばおれが「一日に三人の美女とデートした〜い」という願望を言ったとする、その場合、「本当にそれを駆け抜けるだけのエネルギーがテメーにはあるんだろうな?」ということが前提になるとおれは言った、一日に五人ぐらいなら余裕でその後も「遊びたりないぞグルオオオアア」というような奴でないと、そもそも願望なんか持つほうがおこがましい。
エネルギーがないくせに願望だけ膨らませている奴というのはけっこう多く、むしろエネルギーのない奴のほうがぬけぬけと内心で願望を膨らませていることが多いものだが、そんなものは傍から見れば「ふざけんなよ」としか思えないのだ、基本エネルギーのある奴の願望が叶うか否かの話であって、エネルギーのない奴の願望が叶うかどうかの話なんか誰もしていない、いったい親御さんがどんな教育をしたら「エネルギーのないボクちんのビッグな願望!」みたいなものをぬけぬけと持ち続けるようになるのか、ありとあらゆるセメントガレキを投げつけろとおれは言った。

近年は、エネルギーに対するむしろ「拒絶」が主流であって、ジェームスブラウンが歌うソウルより、スレた業界乳デカ女が媚びて歌う何かのほうが好まれている、エネルギーのあるものは拒絶して自己愛をカッチリ防衛するのが現代の流儀だ/それはいわばエネルギーコンプレックスであり、「エネルギーのないボクちんのウニュニュニュ逃避」だとおれは言った、ひどい言い方だが実物はもっとひどいのでしょうがないのだ、その逃避行動は近年まるで巣穴に逃げ込むザリガニの逃避行動のようにデフォルトに定義されてされてしまっている(と、マジでワークショップではひどいことをひどい言いようで話している)。
エネルギーというのは神経の昂りのことではないのだ、お笑い芸人が不倫騒動で注目されてそんなものに神経を昂らせているヒマ民衆のカタマリを「エネルギー!」とは言わない、夫婦喧嘩というのは必ずくたびれた夫婦がやるものであって、エネルギーのある夫婦がやるものではない、エネルギーのない人は神経が弱くなり、弱くなった神経が昂るというのが生理的なパターンだ、この弱くなった神経にマンガやアニメを刷り込んだところで毒ヘビをぬか漬けにしてみるようなものだ←この成立していないたとえ話はワークショップでは言っていない、われながら見事に的外れなたとえ話だ。
エネルギーには神のものもあれば悪魔のものもあるだろうが、神なるエネルギーというのはそれじたいが花を咲かせるのだ、これはエネルギーを花にたとえているのではなく「花が咲くことの真相を話しているのだ」とおれは言った、正しいエネルギーは奔流あるいは飛沫となってとにかく四方に花を咲かせる、これは正しいエネルギーに自律的に備わっている性質であり、この現象のことを「愛」と呼ぶのだとおれは言った。
エネルギーとは何なのか、おれはこう言った、「われわれは生死やら善悪やらは取り扱えるけれども、命および命ある営為については取り扱うことができない、だから営為を命あるものにしたいということについては "外注" するしかない」「外注してそれを求めると、いちおう『こうしなさい』というオーダーやディレクションは来るのだ、ただ、そのディレクションを忠実にこなすのかというと、こなさねーじゃんというだけだ」「おれたちは命を取り扱えないから、命を求めて、命のしもべになるしかない、ただそれだけのことだ、そのディレクションに従いきるということがエネルギーだ」「命ある営為にするやり方は、求めりゃ誰にでも視えるんだよ、ただその視せられるディレクションがぬるくねえんだ、そこをナメんなよって話、誰がこのディレクションを本当にやるんだよって話だ」。

命を求めて、そのとおりにする、それがエネルギーで、エネルギーだから花を咲かせる。

ただそれだけのことだ、おれはごく当然の感覚として、「花を咲かせていないエネルギーなんかどうよ、バカにするべきだろ」と言った、命ある営為を求めて身を投げ込んでエネルギーのカタマリになって命ある花を咲かせるということ、その中に愛という現象がもとよりあるのを目撃するということ、このことのどこが不健全なのだ、おれはトンチキを言っているのではない、おれはつまらないほどに当たり前のことを言っているにすぎない。
おれのような初老のジジイに対して、十七歳の少年少女がエネルギーの萌芽で負けることなんてあってよいと思うか? 若いというのはコミックオナニーに耽ることを言うのか、バカを言うな/おれは誰かに何をしろと強制することはまったくない、朝起きたときから発泡酒を飲んでテレビを見てオナラをしてマンガを読んでオナニーして芸能人のスキャンダルに評論を下していてもかまわないのだが、それらのすべてを「エネルギーを示した日々」にしろと言っているだけだ、「エネルギーを示していない日々なんて日々じゃないだろ」とおれは言った。

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