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仏教には教えしかなく、キリスト教には愛しかない

日、人に聖書と仏典の話をしていて、とても不思議な発見をした、それは巨大なナゾであり巨大な発見だった。
なんというか、仏教(根本仏教)については、その教えがどうだったかというのは説明できるのに(つまり四諦八正道)、キリスト教についてはその教えがどうだったかというのは説明できないのだ、いやもちろん説明しようと思えば説明できるが、断じて「説明する気にならん」のだ、このわけのわからない確信はわけのわからないままに先に確信として定まっている。
仏教といって、阿弥陀仏信仰はまた別になるが、シャカを開祖とする根本仏教については、そもそも信仰心を必要とするものではない、根本仏教はひたすら「理」だ/「苦しみを断つのではなく苦しみの原因を断つ、そのための八つの正しい道を教える」という、ただの冷徹なメソッドであり、ただそのことを為した人とそのことに集った人たちの、才能も根性も知能も桁外れだったというだけだ。
一方キリスト教は、一見すると理に叶ったことを言っているようだが、それは見せかけであって、すべての見せかけの向こうには「そうしないと天の国に入れません」「父なる神の祝福を受けられません」ということしか言われていない、これは "信仰" だ、キリストは福音書でずっと「信心の薄い者たちよ」と嘆き続けているのに対し、仏教ではブッダが「必ず煩悩が苦しみに変わる」と説き明かし続けているだけだ、この二つはそもそも「宗教」といって同じジャンルに並べるものではないとおれは考えるようになった。

これは不思議な発見だった、なぜか、いわばおれの内にあるどの蛇口をひねっても、キリスト教の「教え」などというものは出てこないのだ/もちろんいわゆる隣人愛というようなもの、「第一に汝の主たる神を愛し、第二に汝の隣人を汝のごとく愛しなさい」というような説諭はあるしそのことも説明はできるが、<<これを説明したところで断じてキリストの教えにはならない>>、これは聖書を含めた<<テキストのコピー>>に過ぎず、つまりイエスキリストから切り離されているので、テキストのコピーには何の意味もないのだ、断言していいが「味付けの順番はさしすせそ」と言っているのと同じだ、そんなものは神でも何でもなく、そんなものを学んだとしても「ふーん」ということにしかならない。
おれの内部のどの蛇口をひねっても、キリスト教の「教え」なんてものは出てこない、キリスト教の「教え」なんてものが出てきたらそれは郵便受けに突っ込まれる質屋のチラシと同じだ、おれはたとえローマ法王に中指を突き立てられてもこのことを改めるつもりはなく、キリスト教の場合は教えが重要なのではなく「イエスキリストがそう教えた」ということだけが焦点なのだ/だからまかり間違っても「イエスキリストはこう教えた」というようなことをおれの口から説明するということはありえない、キリスト教についてはイエスキリストの口から説明を受けるしかないのだ、この「イエスキリストの口から教えが説かれる」ということ自体がキリスト教なのであって、イエスキリストの口から教えが説かれたときにのみ発生する "神の愛" という現象そのものがキリスト教の本体であり実質になっている。
キリスト教は、「宗教」とされ「教える」の字がついているが、実は本体は教えではなくそれを教える「主体」の存在だということになる、シャカを開祖とする根本仏教はこれと異なり、仏教は誰がそれを教えたということは問題ではなく、まるで宇宙開闢の以前からある「理」だけがシャカによって開示され、それを正覚できるかというだけの問題になる、つまり仏教には本当に「教え」しかない。
仏教といっても阿弥陀仏信仰はまた別で、阿弥陀仏信仰もシャカがわれわれに教えてくれたから成り立っている別次元の存在のことだが、アミダであろうがアーメンであろうがヨガの聖音AUMであろうが「阿吽」であろうが、母音がA→Mに向かうのは同じだ/何のことはない、キリスト教だろうが阿弥陀仏信仰だろうが、A→Mの中に現れる霊的な愛(キリスト教的には「憐れみ」、仏教的には「慈悲」と呼ぶ)に「すべてをゆだねろ」と言っているだけだ、親鸞はそれを強調して「他力本願」と言っただけで、アミダであろうがアーメンであろうがその自力ならざる主体のところに「命を帰らせる」と言っているのはまったく同じだ。

根本仏教は「ゼロヘルプ」が前提で、キリスト教や阿弥陀仏信仰は「全ヘルプ」が前提だ。

阿弥陀仏信仰では、ブッダに説き明かされたところに基づき、正式に「完全に信じて十回でもその名前を唱えたら慈悲による救済対象になる」とされているし、それはキリスト教の福音書にしつこく出てくる描写に突き合せれば、それぞれは別物であるにしても、「完全に信じてアーメンを十回でも唱えるようならそりゃ天の国に迎え入れられるでしょうよ」という旨のことが福音書で言われているのは明らかだ/いちいち救世主とかメシアとかいうから物々しくなるのであって、分類的には単に、「1.ゼロヘルプで本当にやれるのか」「2.全ヘルプを本当に信じられるのか」という二種類があるにすぎない、そして前者はあまりにも厳しく、後者は後者でむつかしいというだけだ。
というわけで、自分の内部のどの蛇口をひねっても、キリスト教の「教え」なんてものは出てこないということの発見は、おれに一種の膨大な歓喜を与えた、おれが断言できるのは「キリストは存在しているがキリスト教は存在していない」ということだけだ、新約聖書というのは一切 "教典" ではなく、本当にただの "福音書" なのだろう/キリストが存在するということはキリスト教が要らないということだし(当たり前だ、救世主がいるなら宗教は要らんだろ)、キリスト教をデッチあげることはキリストの存在を否定することになるだろう、なお当然のことだがキリストは死後に復活しているしその後死んだわけでもないので、二千年前の過去の人ではなく現存しているということになる、だから都市伝説によくあるキリストの子孫ネタもどうでもいいのだった、当人が現存しているのに子孫の有無なんかどうでもいいだろう。

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