☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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「現実的に神がいるか」ではなく、「現実的には神がいる」ということ
戦空手の師範代と、お遊びで乱取りしてもらったことがある、まだおれが高校生のころだった。
その筋の人はよく知っていることだと思うが、大会でも活躍するような実戦空手の師範代となると、もう反応速度は違うし動体視力は違うし鍛えこまれたワザのパターンもレベルが違うし、そもそも身体の頑丈さがハンパじゃないので、まず何をやってもシロウトの攻撃が通用するレベルにない。
いっぺんそのあたりの、「こんなもんに勝てるわけあるか!!」という笑えるほどのリアリティは、誰もが経験してみたらいいと思う/たとえば女性が護身術を習うと、「手首のこの骨の部分をもって、外側にこうひねりあげる」みたいなことをやらされると思うが、それは通常の人の手首だから成り立つのであって、実戦空手の師範代みたいな人の手首には通用しない、それはもう掴んでひねろうとした瞬間に「はあ?」と、中に鉄筋コンクリートでも入っているのかと感じさせられるぐらいだ、そして「こんなもんに勝てるわけあるか!!」と笑わされること必至なのだった、いわゆる「鉄拳」というやつは本当に工事現場の鉄筋のような感触がする。
そして同時に、今になって思うことだし、その当時もうっすら思っていたことだが、じゃあその実戦空手の師範代を実際に殺すとして、それを殺せないかというとそうとは限らない、それは<<リアリティと現実は違う>>からだ、奇妙な言い方だが、現実というのはリアリティのようには進んでくれない/リアリティの面では「こんなもんに勝てるわけあるか」なのだが、現実にどうなるかというと、そのリアリティのとおりにはならない、現実には神も悪魔もいるからだ、神も悪魔もいる現実のもとで、人のリアリティなんてどうなるものか、そんなものあってなきがごとしだ。

このことは、単に「ぶちのめす」という範囲のことでは、現実的に起こってこない、「ぶちのめす」というのは逆にいうと "相手を殺害するつもりがない" ということなので、言ってみれば世間的な「生活の範囲」に収まっていることになる/この場合はほとんどが「リアリティ」の範囲に収まるので、何も面白くない、神や悪魔はそうした人間の「世間的・生活の範囲」のことには興味がないようだ。
これが、相手の首をはねるかその骨を折るか、もしくは流血なり絶息なりさせるとして、相手をきっちり「殺す」ということになると、物事の性質が変わってくるのだ、それは何が違うかというと/「ぶちのめす」という場合はAがBをぶちのめすということになるが、これがきっちり殺害を前提にする場合、AがBを殺害するように見えて、その実際が済むと、そこにはもうAしか残っておらず、Bは消失してしまうのだ、あるのはAだけ、いわばBは "初めから存在しなかった" ようなことになる、この点で殺害前提の戦いは性質がまったく異なるのだった。
われわれは世間的生活の習慣と、スポーツの発想に慣らされているので、AがBを「ぶちのめした」場合、Aが勝者でBが敗者になるというふうに当たり前に思っているが、殺害前提の場合はそうではないのだ、殺害前提の場合は敗者が死去によって "消失" してしまうので、同時に勝者という立場も消失してしまうことになる、勝者も敗者もそこには残っていない……そうなってくるとわれわれの自前の感覚ではこの出来事を追跡できないのだ、そのとき実際には「……???」となる/なぜならわれわれは「なぜ自分や他者が "存在" しているのか」を初めから知らないからだ、われわれはそれぞれを勝者・敗者というステイト(状態)に分類することはできるが、そのイグジスタンス(存在)については取り扱いができない、われわれはなぜ生まれてきてなぜ死んでいくのかがわからないので、その生死を自分で他者に施行するということには、言ってみれば「リアリティの得ようがない」のだ。
だからリアリティとはまったく無関係の出来事が起こる/おれがその実践空手の師範代を、「初めから存在しなかったことにする」ということに確かに目覚めて攻撃するとき、その攻撃は「完全にリアリティがない攻撃」になるので、リアリティの中で培ってきた技術や強さはまったく使えないというか、培ってきたものが "まったく反応してくれない" ということになる、リアリティがゼロの攻撃はもはや「攻撃」なのか何なのかわからないのだから……これはもちろん逆の立場でもまったく同様で、女子小学生がおれを「初めから存在しなかったことにする」として簡単な包丁一本を手にもっておれを殺しにきたら、その場合は何がどうなるかは誰にもわかったものではない。

勝敗なら人のリアリティで取り扱えるが、存在と消失はまったく別のものが決めてしまう。

だからこのことは、練習なんかしようがないのだ、どれだけ実戦的な練習をしようが、そもそも存在と消失を決めているのはわれわれではないので、われわれが練習するということ自体に意味がない、神と悪魔が練習するのなら意味があるだろうが、そんな練習メニューを誰がどう組んで誰がどう指導すればいいのか、さっぱりわからない/それでもおれが、世迷言として大真面目に言うなら、自分が練習するというようなリアリティのアホはやらずに、「神に練習させろ、あるいは天使に練習させろ」と言うだろう、その意味で練習はやっぱり必要デース。
仮にこの宇宙に、知性をもつ者がAさんとBさんしかいなかったとする、ここでAがBを殺害した場合、Bは消失するので、この宇宙に残された知性はAのみという状態が残る/このときAがBを殺害したということが「善いのか悪いのか」を決定するのは、唯一の知性であるAだけということになるので、それを善いとすることもできるし悪いとすることもできる、このようにおれの話していることはすべて現実的なことであって、現実的だからこそリアリティがない、おれは「リアリティに頼って現実から逃げるな」ということを警告している、誰にでもいつかそうしたリアリティのない現実の瞬間が来るのだから。
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