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人が動機ゼロで行動する仕組み2
はふつう「動機」というメカニズムを持っているものだが、このメカニズムを放棄するケースがある、一方はそれを神に捧げてしまい、一方はそれを悪魔に売り渡すということになるのだろうが、なぜこの「動機放棄」が起こるかというと、どうやら「根源的な恐怖」のせいのようだ。
たとえば、新約聖書の立場を採ると仮定したら、まあキリストに好き放題に言われたパリサイ派の人々は、たまったものではなかっただろう、何しろキリストは万座の中で「あいつらは聖職者ふうに自己アピールして、少しでも人にチヤホヤされると内心でドーパミン出まくりなんだよ」「で、やっていることといえば、頼る人のない未亡人を追い詰めて食い物にしているんだよなあ」と放言して憚らなかったのだ/われわれの周囲でさえ、一般的に「社会的権威ある人々」に対してそんな放言をブチかましたら、彼らからすさまじい憎悪の目でにらみつけられることは必定だろう、そんなもんド田舎の警察署でも一般市民に対してはふつうヤクザまがいの態度を基本にしているものだ、おれはそのことについてはいいかげん「まあそういうもんだよな」という事実の認知しかしていない、それをいいとか悪いとかいうのはもっとマジメな人が考えるべきだろう。
さてそれで、キリストが社会的権威ではない、何か天からの霊的権威によって、直接人々に「どうやらガチの救世主っぽい」「預言者ヨハネも断言していたしな……」と直覚させていたとしたら、そのときこそパリサイ派の人々にとって、シャレにならない「ヤバさ」を感じさせたはずなのだ、ここがこの話のポイントになると思うが(話のポイントなんておれは何十年ぶりにこの言い方をしただろう)/何でもないインチキおじさんに弾劾されたとしたら、パリサイ派の人々も何も感じなかったと思うのだ、まあそれなりの不快感はあるだろうが、それにしても磔ゴーゴーで「熱狂した」とは思えない、ここがまさに話のポイントになる。
新約聖書の立場を採るとすれば、イエスキリストの霊的権威を、パリサイ派の人々でさえ直覚的に「認めざるをえなかった」のだと思う、なればこそだ/なればこそ、パリサイ派の人々が魂の奥底で覚えた "恐怖" は、ただごとではなかったと想像される、これまでの自分のすべてがインチキで、自分のすべてが主なる神に対する冒涜オブ冒涜でしかなかったと直覚させられたとしたら、彼らのこころと魂は、とてもじゃないがそのことを引き受けられなかったのだろう、それでこの破滅するところのこころと魂を、誰か何とかしてくれと叫んでいるところに、専門業者のような悪魔がやってきて、「お困りのようですが、ウチにまかせてもらえれば、バッチリ大丈夫ですよ」と営業をかけられた、それでこころも魂も悪魔に売り渡した。

いちおう理屈でいえば、キリストにボロクソに言われたパリサイ派の人々も、シャレにならないヤバさを不可避的に直覚させられたとして、「じゃあ悔い改めればいいじゃん」ということになる、そりゃまあ確かにそうなのだろうが、その悔い改めるべきすべてのことが、あまりにもデカすぎてヘヴィすぎたということではないだろうか。
新約聖書・福音書に書かれている、キリストの処刑に向かう後半部については、このように読み取れる気がするのだ/つまり、悔い改めることに "成功" すれば、人は一般的な「動機」から離れて、基本すべてのことを神にささげようとするラインに乗るが、悔い改めることに "失敗" すれば、人は神にささげそこねたその動機システムを、悪魔に売り渡してしまうということではないだろうか。
人はけっきょく、自分の魂を自分でハンドリングしているわけではないため、根源的なものに「おい!」と言われると、自分ではどうすることもできず、もともとは自分でハンドルできないこの「魂」というやつを、もともとのところへ「帰す」という手続きに出るよりしょうがないのだと思う、その帰す先が神仏ならいわゆる「帰依」「帰命」ということになるが、そのことに失敗すると、その出庫した魂の行く先は神仏の世界ではないどこかということになるのだろう、それが慣用句として言われる「魂を売り渡した」ということになるのだと考えられる。
つまり、新約聖書の立場を採れば、パリサイ派の人々は「キリストが現れたせいで、悪魔に魂を売り渡すしかなくなったじゃん!」という状態になったと見えるのだ、パリサイ派の人々はそれまで業(カルマ)を増大する所業ばかりをしてきて、キリスト教的にいえば自分の十字架をデカくする所業ばかりしてきたにせよ、それでいきなり悪魔に魂を売り渡すところまで飛躍するわけではなかった、ところが、キリストなんてガチもんが目の前に現れてしまったせいで、「悪魔に魂を売り渡すしかなくなったじゃん!」となった、そのように考えるとつじつまが合う/イスカリオテのユダも、キリストを敵方に売るにしても、銀貨三十枚というのはいくらなんでも安すぎるのだ(会計係としての使い込み問題があったという説もあるが、それを含めてもだ)、だからこれはカネに目がくらんだというような業(カルマ)の行動ではなく、キリストの弟子の中でユダだけが "悔い改めるのに失敗した" と捉えることができる、ユダは根源的でどうしようもない恐怖の中、 "自分の魂を救うためにキリスト処刑に加担した" のだ。

神の手には「救済」と書かれており、悪魔の手にも「救済」と書かれている/ただ見積書の負債額が違う。

新約聖書の立場を採るとすれば、神の手に書かれた「救済」を見たとして、パリサイ派の人々がこれまでにやらかしてきたことの負債額は、見たところ思わずぶどう酒を噴き出してしまうような数値だったろう、とてもじゃないがあがなえるような負債額ではない/一方で、同じく「救済」と書かれた悪魔の手を見、その見積書の負債額を見てみたところ、「これぐらいならまあなんとか」と思えるような数値だった、じゃあ根源的な恐怖の中、「もうこの業者にまかせて楽になりたい」という弱気に流れるのはよくあることだ、人はそんな気楽にド根性返済の道に踏み出せるものではない、ましてこのあがないは単位がカネではないので、返済できないと感じる人は本当に返済できないと感じて絶望する。
神の手にも悪魔の手にも、「救済」と書かれていて、救済ということはつまり「お任せください」ということだ、業者のチラシによく書かれているやつ、「困ったときはご相談ください、わたしたちにお任せください」、もちろん神は業者ではないので、お任せくださいという低姿勢ではなく「ゆだねよ」ということになるが/どうしようもない恐怖の中で、魂を何かをゆだねるしかなかった……ところでまったく別の話に聞こえるかもしれないが、世の中には借金が好きな人がけっこういる、借金の力と権威が好きな人がけっこういるものだ、新約聖書には「人はカネと神の両方に仕えることはできない」と書かれているが、パリサイ派の人々やイスカリオテのユダは、仮に借金があったとしたら、それについてはド根性で返済するマジメなタイプだったと思われる、それは一番奥の意味で、彼らが神ではなくカネに仕える人たちだったからだ。
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