☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< 無神論者でも仕えるものがある | TOP | 無神論者でも仕えるものがある3 >>
無神論者でも仕えるものがある2
ったくりの見積もりを出してくるのは、いわゆる悪徳業者と一般には呼ばれているが、そんなことでは実際の実物、そのありようを見損ねるだろう/悪徳業者なんてものではなくて、もっと先のもの、「仕える事の大なる者」「主へ仕えること厚き者」たちだ、このことを知っていないと、本当に実物のありようを見誤ってしまう。
冗談でなく、ぼったくり見積書を出してくる業者さんは、善悪でいうと善人だ、これは本当に皮肉でも何でもなくガチの話だ/彼らは単なる欲からカネが欲しいのではない、カネが彼らの仕える主君だから、それを安くは扱えないのだ、だから信じがたい話(でもマジだ)、彼らは法外な金額の見積もりを出すときのほうが、魂の底からウキウキしている、その見積書は彼らにとって讃美歌の詩篇のようなものだと思っていい、であれば無邪気に誇らしくウキウキするのも当然のことだろう。
そうした彼らの「仕事」、「仕える事の大なる者」たちの仕事というのは、あくまで業務ではない、彼らの仕えているのはカネであって業務ではないのだということをよく知っておかねばならない/たとえば車をそうした修理業者に出したとき、彼らはすでに車を修理するという業務には興味がないのだ、ただ見積書や領収書、そこにカネの大きな数値を書き込むことだけに、魂の祝福を覚えている、なぜそんなことになるのかということについては、「それが仕えるということだから」としか説明できない。
業務というとき、その業というのは(仏教的に言うと)カルマのことだが、人に償却すべきカルマがあるのはおかしくない、このカルマに相当することを聖書では「十字架」と呼んでいるようだ、そして聖書でも「自分の十字架を背負ってついてきなさい」とキリストは言っている/だから業務そのものはおかしなものではないのだ、だがそのカルマ十字架を背負って歩み、その向こうに神に仕える人とカネに仕える人がいるということだ、業務の向こうがわにある「仕える事」、「仕事」が神かカネかのどちらかに二分されるということだ。

誰でも知っているとおり、たとえばテレビには何種類かの金持ちが出るが、金持ちというのは必ずカネのかかることで目立とうとする、たとえば通販企業で財を成した会長がテレビに出て「竹馬で曲芸を極める」みたいなことはしない。
それは、そうした人々の仕える先がカネだからだ、彼らにとって何かをするということは、とにかくカネを消費や投資に移動させるということでしかない、まるで祈ることしか能がない聖職者のように、カネに仕える人はカネを移動させることにしか「何かをやっている」という感覚を得ない/カネに仕えている人にとっては、いかなる夢も、自分がカネを使うか・もらうかの二択しかなく、同じだけ大きな金額が動くなら車が走ろうが飛行機が飛ぼうが何でもいいのだ、ただカネが偉大だとしてそれが崇められれば、彼らとしての仕事は存分に果たされたという満足が与えられることになる。
ちょっと奇妙な話だが、よりわかりやすいこととして、このようにも書き話しておこう、もしあなたの身近に破格の金持ちがいて、資産を何百億でも持っているというような人がいたとしたら、その人にまるで冗談みたいに、「百万円ぐらい貸そうか?」と持ち掛けてみるといい、通常の感覚だと「は? なんでだよ、要らねーよ」と言われそうなものだが、案外そうではないのだ、彼らは本当に「カネに仕えている」ので、まったく無意味にでも百万円を借りるということに前向きに感触を覚える、少なくとも「そうだね、この先困ったときは借りるよ」というぐらいの反応で、しかしなぜかパアッとその顔色が明るくなるのだ。
金持ちはよくチャリティの発想もするが、それも実は慈善行為にこころを寄せているのではなくて、チャリティでも寄付でも何でも、とにかく「金額」が現れることだけが彼らにとって「仕える事」「仕事」が為されるということだからなのだ、彼らにとっては代金もゼロで寄付もゼロで消費もゼロで投資もゼロで経済効果もゼロということは、感覚的に「捉えられない」ないしは「耐えられない」ものになる/彼らにとっての仕えるものは、カネ、といっても貨幣というよりは「額面」であり、額面が大きければ大きいほど、それは「大いなる主」ということになる、だから債権でも債務でもデッカイのが好きだ、彼らにとってはそれが証であり霊験ということになる。

信仰の厚い業者ほど、見積もりの価格は法外になる。

この先を生きていくのに、誰しもこのことを知っておいたらいい、彼らはすでに業務をこなす「人」という存在を超え、カネに仕える一種の「解脱者」になったのだ、そのときは「解脱者の方がいらっしゃった」と思え(そしてもちろんヨソのプロを探して頼め)/彼らはその信仰の厚さについて証を建てるために、神聖な書面である見積もりに可能な限りの金額を書くことにしている、彼らは日常的に売り上げや資産についてデタラメな数字を言うし、また借金・債務についてもデタラメな数字を言う、それは仕える先の大いなる栄光を称えるために彼らがしている「解脱者たることの証と表現」なのだ。
かつて、業務を上等にこなしていたのはいわゆる「プロ」の人たちだったが、このところ、いろんな分野でそのことの総崩れが起こってきている、総崩れとはつまり、業者の人たちがプロではなく解脱者になっていってしまったということだ、彼らは信仰によって自分のことを善人だと思っているし、その振る舞いや風貌や親しみやすさはまさに善人のものだ、当人は仕えるものを信じ切っているし、またその信じ切ったとおりの証が全身とまなざしにあふれている/彼らが仕えるものに基づいて善人であることは疑いない、おれは今何ら「悪人」については話していない、彼らはまさにまごうことなき善人なのだが、ただ仕える先が違うということだけを指摘している、聖書によれば神とカネの両方に仕えることはできないらしく、聖書が正しいのかどうかおれは知らないし知る方法も必要もない。
正しく見ないとな | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |