☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< 子分は親分が怖いという病的風土 | TOP | コロナ騒ぎは承認欲求チャンスじゃねえだろ39/海の外はいよいよパンデミック最盛期 >>
子分は親分が怖いという病的風土2/「親分の怖がらせパワー」
「自分が相手を病的に怖がれば、相手はニコッとするし、相手が自分を病的に怖がれば、自分はニコッとする」。
日本というのは、まさにこれだ、それこそが日本における「権威」の形態なのだと定義すればいい、このことを露骨にやれば日本人はヤクザじみるし、水面下でやれば日本人は田舎じみるというだけだ。
「権威」について例えるなら、キリスト教徒においては、イエスキリストが奇蹟を行うことで人々に示した神の子としての「権威」、この権威がクリスチャンにとってのすべてであるように、日本人にとっては「親分の怖がらせパワー」という権威が、日本人にとってのすべてだということになる/中世から現代の日本に続く聖書をもし書くとすれば、「親分の怖がらせパワー」が権威として書き綴られるべきであり、その一端がたとえば水戸黄門のような時代劇ということになる。
比較して、たとえば宮本武蔵が剣聖の境地に至ったことなどは日本においては聖書には取り扱われない、それは宮本武蔵の五輪の書には「親分の怖がらせバワー」に関する記述がないからだ、これはむしろ権威に対する冒涜と映るので、日本人には本質的によろこばれないものになる。

「親分の怖がらせパワー」!! この文言は実にアホくさく、その実質はさらにアホそのものと言うしかないだろうが、これを聖なる権威として奉っているわれわれが首をかしげていてもしょうがないだろう/ヤクザであろうが役所であろうが、家庭であろうが宗教施設であろうが、日本人が本当にやっているのはこのアホみたいな文言、「親分の怖がらせパワー」という権威だけだ。
さらにこのアホみたいなことの、実にアホらしい構造を突いていくと、「親分の怖がらせパワー」を発揮していくためには、ほかならぬその親分自身が、やはりそのまた親を病的に怖がっているということを必要とする、自分が怖がりパワーに侵されきっていなければ、自分として怖がらせパワーを行使することもできない、だから元はといえば徳川家康が破滅的に怖がりだったからこそ、家康は親藩も外様も根こそぎ怖がらせるパワーを持ちえて、現在の日本を形成したのだということになる、だいたいこういう呪術めいたパワーが発揮されるにはそうした「穴二つ」の仕組みがあるものだ。
そうして仕組みを整理していくと、思い出されてくることがあるが、そういえば丸の内に勤めていたとき、上司の勘違いから業務上のことでギャーギャー言われ、「ですから……」と説明しようとしても聞こうとせずギャーギャー言い続けるので、しゃーなしに堂々と溜息をついて聞いていたのだが、後になって事務方の女性に「なんであんなにあっけらかんとして、まったく "怖く" ないの?」と不思議がられたのを思い出す、おれはそのとき、「怖がるって言っても……別にクビになっても、まあかまわんっちゃあかまわんですし、仮に殴りかかってきたとしても、そのときは明らかにおれが勝っちゃいますし、ましてさっきのあれは完全に向こうの勘違いですし、正直 "なんだこりゃ?" としか思っていないですよ」と答えた/そして、言い出せばキリがないほど、これまでに典型的なパターンとして、相手がおれを怖がらせようというときに限って、おれはボカーンと「なんだこりゃ?」と、首をかしげてそれを眺めてしまうということを、とんでもない回数繰り返してきたことを思い出す、それは柳に風と受け流しているわけではなくて、本当におれにはわからないのだ、相手を怖がらせようとする魂胆も感覚も、おれにはどうしても「わかるような、わからないような……」というファンシーなネタにしか感じられない。
おれにとって唯一恐れることは、自分が愛すべき者でなくなるという可能性と、愛すべき人たちの友人でなくなってしまう可能性についてだけだ、愛すべき者でなくなりまた愛すべき人たちの友人でもなくなってしまい、その後ひたすら何十年も生きるだけ生きなくてはならないとなったら、さすがに「それだけはかんべんしてくれ」と恐怖に値する、それに比較すれば「親分の怖がらせパワー」と遊んでいるヒマはおれにはない、本当は誰にもそんなヒマはないのじゃないかとおれには思えてならないのだが、日本は本質的にはその怖がらせパワーを第一義の、つまり自己存在のすべてに懸けているので、これはもうおれが日本という国を理解していないのかもしれない、まあおれはおれの国が大事なのであって、おれの国でないものに向ける関心は本当は一ミリもない。

日本人の宗教精神は、「親分を怖がれば報われます」だ、だから日本の歴史にはギリシャ彫刻がない。

ギリシャ彫刻といえば、いわゆるアポロンやニケがそうだが、ああいう「光輝」に権威を認めるというところが日本にはまったくない、どう考えてもアポロンやニケが葵のご紋がついた印籠をニュッと出して「控えおろう」と人々を恫喝するとは思えない/そうして考えると、やはり宮崎駿がいた「もののけ」の世界のほうが日本の宗教精神を正しく描いているといえる、ただしそれは日本人の宗教精神として正しい描写なのであって、カミサマが本当にそうなのかは誰も知らない、カミサマは「んなアホな」と言っている可能性もある。
たとえば日本のお寺やその本尊、あるいは各家庭の仏壇を見てもわかるとおり、その第一義の印象はどう見ても「暗くて怖い」だ、どう見ても仏様の光輝という印象よりは、ドロドロ〜という古いオバケの印象がある、アーリントン墓地と日本の墓地の印象もまったく異なるのであって、日本人の宗教精神は「病的に怖がれ」「親分を怖がれば報われます」だと言える/おれはそのあたり、人に怖がられて親分扱いされることにウットリできるという気質がまるでなく、むしろ単純に光輝ある愉快な姿の、光ゆえのやさしさがある者でありたいと望んでいるのだが……これはどちらが正しいかというような話ではなく、ただおれが最近になって知ったのは、おれがおれなりに全身全霊で人生を賭けているように、「親分の怖がらせパワー」をやっている人も、やはり全身全霊で人生を賭けてそれをやっているということだ、もしおれが大ハズレだったらギャアアアという痛哭しか残らないであろうように、やはり「親分の怖がらせパワー」が大ハズレだったら、そちらの人もギャアアアという痛哭しか残らないのだろう、そこはフェアなものであって、互いに諍いを起こすようなことではないと思っている。
視点変えてこ | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |