☆いい女☆で行こう!

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勝ち続けるためのサイエンス

分がこれまでに「勝って」きたことをざっと並べようかと考えて、数秒で「うわ面倒くせえ」と頓挫した、それはもうそんなことを言い出したら大量にありすぎて話にならないからだ、それでもいつかは資料として、おれを慕う人たちが勉強できるようにまとめておかねばならないとも思うのだが……うーん(面倒くさいらしい)。
なぜおれが、自己評価というものをまったくしないのか、考えてみればそのことも明らかになった、それはもう「勝って」いるのだから、評価なんかしなくていいということなのだ/勝利という最上の価値をすでに獲得しているのに、そこにもう足すべきものなんてないので、自己評価でそれをワッショイするということの必要が、おれには一ミリもなかった、このあたりの事情もはっきり言って人並み一般の世間からズレまくっているだろう。
「何にも勝ったことがない人」というのは、多数派でありながら、世界の感触の中では彼らこそ非常に異質なもので、彼らについて知ることは何の足しにもならないし他人はどうしてやることもできないのだが、ただ今になって彼らの行状は、「勝つ」という現象に対するサイエンスの資料としては利用することができる、「何にも勝ったことがない人」の情報は、「勝つ」ということの補集合として逆に「勝つ」という現象を浮かび上がらせることができよう。
「何にも勝ったことがない人」は、まず自分で何かを考えるということをせず、自分が生きねばならないという弱みに従順で、強い者の言いなりになり、自分では「生きるために必死だった」とひどい言い訳をして、とにかく自分がメシを食うためだけに可能なだけ周囲を漁るということ "だけ" を続けてきた人たちだ、彼らは自分がメシを食えるのなら闇金業者にもなるし教会の神父になってなる、自分では何も考えていないのだからすべてのことは「どうだっていい」のだ、こうした人たちがただ食いつないで生きているという事実は、「食いつなぐうんぬんにこだわらず自ら踏み出したにも関わらず光輝ある生を得て生きている人」とはまったく存在として異なるものだ、むろん「そんな彼らだって生きているんだ!」というような美麗風味のことは誰にでもいえるが、残念ながら何ぞ世界の法則はそんなエセヒューマニズムは受け付けてくれないらしい、キリスト教的に言うと「世に勝て」ということが勝利であって、世に負け続けて自己正当化している者には見る限りまともな慈悲は与えられないらしい(しゃーない、事実を直視すべきだ)。

それにしてもおれは、そうして「何にも勝ったことがない人」が、悲鳴をあげつづけることについて、「ざまーみろ」という感興は覚えない/何にも勝ったことがない・勝とうともせず弱さのまま自己弁護に耽りつづけた人について、明らかに「どうしようもない」という事実を直視しながらも、それらを飛び越えて「すべては丸く収まってほしい」とデタラメに願うこころがある、それがなぜデタラメかというと、彼ら自身がおれの願うそれを否定して唾を吐きたがるからだ、当人らがそうして拒絶しているものを、いったい誰が赦すだろうと考えると、理論上最大に「それは苦しいっス」とおれが諦めざるを得ないのだが、それでもおれの知らない叡智や愛で、万事が丸く収まるならそのほうがはるかによいし、そのことが唯一よいと思っている、彼らの魂は本当に自らによって殺されるのかもしれないが、そのことも含めて彼らが「丸く収まる」ということなのかもしれないとも思う、そのあたりはもうおれの思慮可能な範囲を超えているのだ、少なくともおれ自身に彼らを呪う意思はない、おれが見て感じているのはひたすら「あちゃー」だけだ、「そんなにゴリゴリに自分の魂を殺す毒刃を振り回して、あちゃー」と思うのみ、おれはこうした人が突然きょとんとなって「全部やめました、これまでごめんなさい」と言い出すことを何よりの平和とハッピーだと焦がれている。
おれは子供のころから、また現在においても、おれに関係のない者、おれとまったく遠いところにいる者にこそ、わけもわからずギャーギャー言われるということを繰り返してきている、おれがそいつに何かしたというわけではないし、そいつがおれにギャーギャー言う筋道はどう考えてもありえないのだが、そういう人たちに限って、ほとんど理由なくヒステリー的に、おれに対してギャーギャー言うのが典型的なパターンだ、おれはおれに近い者には文句なしに愛されるのみで、おれに完全に無関係に遠い者ほどおれに対して理由なくギャーギャー言う、それははっきり言って迷惑なのだが、この迷惑を受ける側であれたことを、冷静にはよろこばなくてはならないのだろう、逆の側をやっている苦しさと暗さを考えたら、その闇っぷりは想像を絶している。
「何にも勝ったことがない人」に比べれば、おれはとんでもない膨大な勝利の中を生きてきただろう、おれは掛け値なしにすばらしい瞬間の中をしか生きてきていないからな……このおれが、生来的な気質としては、平等主義のリベラル派というのがタチが悪いのだ、おれに対して偉そうにギャーギャー言いたがる人に対しては、つい習慣的に、「自分のほうが偉いと言いたいならどうぞ」「おれに説教したいならお心のままどうぞ」という態度を向けてしまう、別におれにとってはその人のほうが偉いという設定でも構わないからだ、しかしこれはおそらく最も残酷なことなのだろう/だがおれには何かについて「許さない」という感覚がある、それはおれに対する何かを許さないということではなく、「やめなさい」と自らに聞こえている、その呼びかけのようなものを、無視して冒涜し、しょーもない自己弁護の毒刃を振り回し続けることについては、「それは許さない、そのまま滅びなさい」と見捨てているところがあるのだ、これはおれが狭量なのではなく、ある種の事象として「許す」ということがそもそも成り立たないタイプの事象があるのだ、それは許すも何も、「一度侮辱したからにはそれにはもう二度と会えません」というたぐいで、もう接触できないなら許しようもなくなる(それにはもう二度と会えない上に、どうコールしても「別のもの」が出てきて会わされることになる)。
で、「勝ち続けるためのサイエンス」ということなのだが、じゃあどうしたらいいかというと、けっきょくおれはこのままでいいんじゃないかということになるのだった、おれは目前のすべての人を無視してでも、おれ自身に呼び掛けてくる何かについてそれを無視することはないし冒涜することもない/おれはけっきょくこのままで何も問題ないということになるが、どうせならもっと効率化しようと思った、おれはどうも「許されなくなった人」がますます深い悲鳴の奥へ進んでいくよりないことを、つい嘆いて直視することを避けてしまうのだろう、「何にも勝ったことがない人」というのは、何もしてこなかった人たちではなく、聖なるものに唾を吐き続けてきた人なのだ、彼らはどうやら「許されるという仕組みに自ら出会えなくなる」ようだ。

「何にも勝ったことがない人」は、「すばらしい人の勝利に唾を吐いた」からそうなった。

普段はちゃらんぽらんなおれが、唐突に烈火のごとく怒り、またその不穏を暴圧的に指摘して粛清することがあるのは、おれ自身そのように認識してきたわけではないが、いつもこのパターンだ、これだけは何としてもその手前で制止しなくてはならない、そして制止を振り切ってその先まで行ってしまった人・もうそれをやっちゃった人に対しては、もう状況は変化したので、フーと一息ついて、「あ、もういいっスよ」「好きにしたらいいじゃないすか」というふうになる、これはもう過ぎてしまった・終わってしまったことなので、おれとしてはもうガンバる必要がないということだ/いちいちそう認識していたわけではないが、毎回こういうパターンをおれ自身経験している。
勝ち続けるためのサイエンス、それは、<<自他に関わらず勝利の尊厳は汚さないこと>>だ、そのことに比べれば、たとえ仏像をサンドバッグにして砕いたとしても、そんなことは罪のうちに入らない、仏像なんて方便のための偶像でしかないのだから、仏像を砕いたからといって仏法が砕けるわけではない(実際、そんなことを気にしていたら戦争で爆撃なんかできねーだろ)/われわれが世に勝利できるよう、語りかけてくれる聖なるものがあるのだとして、それに唾を吐いたら、許されるかどうかというより、その許され方を案内してくれる窓口と接触できなくなってしまう、「何にも勝ったことがない人」というのはそうして窓口のすべてを失ったまま、わけもわからず人々と諍いを起こし、また人々と和合しているふりをして、わけのわからないまま生き、わけのわからないまま死の接近を感じているのだ、そこで自分の声がコールするものが常に「逆の窓口」を呼び出すようでは、そりゃあ悲鳴もあがるだろうってもんよ。

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