☆いい女☆で行こう!

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独立は人のわざ、結合は神のわざ
とえばわれわれは音階をドミソと分けることができる/この分かる・tell・識別するというのが人の業でありワザだ。
誰でもピアノの鍵盤を押してドミソを鳴らすことはできるが、それによって三つの音が結合して和するかというと、そんなことは起こらない、たとえ純正調に調律したとしても、それは周波数の問題であって、それぞれの音が和するというような結合は起こらない。
人は分かれている別々のものを結合することなどできない、役所と牧師がよってたかって男女を結合しようとしても何ら結合は起こらないのと同じようにだ、ドミソの三つを結合して和することができるとしたらそれは神のワザでしかなく、われわれは神ではないので、神のワザについては神に外注するしかない。
おれの書き話しているこのすべての文言だって、言語というのは一語一語バラバラのものでしかないから、それが一つの文章として結合するなんてことは起こらない、少なくともおれはそんな現象を起こすことはできない、もちろん偉大なるおれさまはそんなことお手のものだがね、というわけでおれは結合のすべては神に外注しているのであって、おれは何をしているかというとむしろバラバラの独立をやろうとしているのだった。

つまりおれがドミソを鳴らすとするならば、おれはドミソをそれぞれバラバラの音として出すので、その結合については神サマよろしくと外注するということだ、おれはそんなにバカではないので、おれが気合を入れてドミソを結合した和音にできるとはツユほども思っていない、おれにはそんなことはできないし、そんなしんどい上に不可能なことは外注するに限るのだ、おれは合理主義だ。
ドミソの上にさらにメロディだのリズムだのと言い、何なら歌詞までくっつくようなことを言われると、「そんなもん結合なんかできるわけねーだろ」というのがおれの冷静な理解であって、結合はすべて外注に決まっている/おれは人として万事をバラバラの厳密な「独立」に向かわせようとするので、和音やらメロディやらリズムやらが「ひとつになるぅ〜」みたいなことを求めない、いや求めるとしたら外注先に求めるのであっておれ自身には求めない、おれ自身は冷静にすべてのことを「ほいバラバラにやりますよ〜もともとバラバラですからね〜」としかやらない、そんなもん「おれの思いと女の思いはバラバラだろw」というのと同じであって、おれがおれの思いと女の思いを結合できるのだったら街ゆくすべての美人はおれによってヤリ捨てされまくるだろう。
おれがこうして書き話していることと、これを読んでいるらしい誰かがいるとして、書いているおれと読んでいる誰かもバラバラの独立だ、おれの場合おれのワザとしてそこのところが厳密なので、どんなひどいことが書いてあっても読んでいる人に対してはひどさが作用しないようになっている/書き手のおれが読み手の誰かに作用するということはまったくなく――厳密にゼロで――、そうした結合というのはすべて外注にまかせている、外注先はそうした結合の専門なので、むしろ「ちゃんとバラバラに独立させたやつで納品お願いします」と言われているのだ、そのあたりはおれもさすがにわきまえている。
おれがこうして書き話していると、おれは実に自由な、独立・自立した存在に感じられるだろう? そしてこれを読んでいる人も、読んでいるあいだなぜか、独立・自立した自分ひとりとしてこの世界に存在しているような感じがするはずだ、それはおれが厳密にやっている「独立」のワザのせいだな、だからあなたは、こうしてあなたがこっそり読んでいるこのナゾのブログについてあまり知人に紹介しようとはしないのだった、人が「つながる」というような幻想をおれが取り払っているから、そのワザによってあなたも誰かとつながって縛られているような幻想を吹き払えるのだった、それがほかならぬあなた自身に届いているように感じられるのは、結合のせいであって、それは外注先のワザがすばらしいだけであり、それはおれのワザではない(そんなワザを持っている人間は存在しない)。

「おれの書いたもの」と「おれ」は独立したバラバラのものだ。

おれが人のワザとして、きっちり独立バラバラをやりきっているものほど、外注先は品質がいいと見てくれて、結合の仕事を「よっしゃ任せとけ」と請け負ってくれるのだ、「おれと書いたもの」と「おれ」を結合してくれているのは外注先であって、だからこそおれの書いたものはいかにも九折さんが書いたものという声(voice)がする/わざわざ voice と書き足したのは大江健三郎の文学作法に倣って。
ロシアフォルマリズムの発想で言えば「異化」ということになるが、ロシアフォルマリズムは自ら唱えた異化の理論を完成させることができなかった、人間の記憶や省エネの根性によって自動化が起こることまでは看破したが、その先にまでは踏み込まなかった、まあそれは節度ある論者たちだったともいえよう/まあおれの場合はナイスなものが得られたらそれだけでいいので、そのためには節度もヘッタクレもないのだった、おれがやっているのは人のワザとしての独立バラバラ化だけ、それがいかにもひとつのものに結合して鳴り響いて聞こえるのは外注先の仕事のおかげだ、うーんさすが偉大なるおれさまってところだ。
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