☆いい女☆で行こう!

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100円をもって、50円のものを買うと、手元に残るのは何円か2
まりおれは、この世界の法則を、「因果律だけじゃないっぽい」と見ているのだ、すべてが因果律に収まるふうに見えるのは、単にわれわれの「認識」という能力が因果律しか視認できないからにすぎない。
心理学者ユングは、いわゆる共時性の理論において「因果律のほかに偶然という軸がある」ということを唱えたが、そんなもん再現性の得ようがなのいで、ただそういうガチ聡明な学者でも何かに気づいた人がいるっぽいという、歴史的な道標になっている/ユングが合理主義者のフロイトと対話しているとき、二人の目の前で超心理現象が起こったが、フロイトはあくまでそれを受け入れず、認めもしなかったという(有名な逸話だ)。
おれは因果律という軸に対し、もうひとつの軸があるとして、それを「偶然」の軸とは思わず、要するに「主体」という軸なのじゃないかと思っている、そもそも因果律で考えればこのタンパク質と神経細胞の絡み合いが「わたし」という主体の現象を引き起こしていることじたいがおかしいわけで、因果律という法則軸の中に「主体」という法則軸が混ざりこんでいると考えたほうが全体がすっきり整合する/ただしわれわれの「認識」という能力は、それじたいが因果から発生しているため、因果律しか視認できない、すべての哲学者がそうであったように、認識の機能ではどうやっても「わたし」という現象を一ミリも解明できない。
因果から発生した「認識」という能力が、因果律という法則軸を視認するなら、やはり「主体」という能力が、主体律と呼ぶべき法則軸を視認してもおかしくはない話だ、そしておれが子供のころからずーーーーーーーっと視てきた「これ」は、要するに主体が主体軸という法則軸を視認してきただけじゃないのかと思う/認識の因果によって因果律を見たらそりゃあ 100−50=50円だが、主体によって主体律を見たら残金がいくらかなんて、「主体が与えたとおりになるだけ」だろう、このように因果律というのは「信じるまでもなく、見たらわかるやろ」という現象のことであって、われわれの認識という能力の中にそもそも「信じる」などという能力はない、認識の能力は認め知る(認め識る)ということのみであって、 100−50=50 なんてことは何か秤ででも実験すればいいだけのことであり、信じるというようなプロセスは必要ない、自分が信じると認識しているものは信じるという主体の現象ではない。

これは何も、おれがわけのわからん話をしているのではなくて、因果律つまり原 "因" から結 "果" が生じるという法則が、われわれにとってわかりやすくあったとして、この宇宙に物事を起こす原理は「それだけとは限らんだろ?」ということにすぎない/この宇宙に因果律しかないように見えるのは、われわれが原因と結果という「それしか視えない」からであって、われわれの認識機能に引っかからない原理があったとしたら、そんなものはもうわれわれには "お手上げ" じゃないか、たとえば「時間が止まっているあいだに三年経った」として、われわれの認識できるもののすべてはそのとき止まっているのだからそんなことはわれわれが知りようもないというのと同じ類の話だ。
われわれが認識機能で検出できるものしか、われわれは認識できないのであって、その認識できる因果律のほかにも法則の軸がある……というより、ひょっとしたらわれわれの持っている「認識」という機能が、実はこの宇宙に対してはきわめて限定的な能力にすぎないかもしれないじゃないか、もし自分の持っているテレビとアンテナがNHKしか映さないのであれば他のチャンネルはどうやっても視聴できないように、われわれが一般に持っている「認識」という能力とそこから認め知ることのできる因果律という法則は、何も宇宙の唯一法則というのではなく、単にわれわれが接触できる法則がそれに限定されているというだけのことかもしれない。
何しろ相対性理論によると、光の中では時間は止まっているそうだし、時間が止まっていると言われてもけっきょくわれわれは「???」となるのであり、要はわれわれは認識機能で「分かる」という範囲を逸脱するものについては、存在しないと断定したがる傲慢さの癖があるだけだろう、われわれは質量やら大きさやら速度やらをパラメーターとして物理的に宇宙を観測することができるが、そもそもわれわれに認識できないパラメーターがあるとしたら、そのパラメーターじたいを知る方法がないし、ましてやそれを定量することなどできるはずもない。
われわれの身体は細胞で出来ており、細胞はタンパク質で出来ており、タンパク質はアミノ酸やペプチドで出来ており、アミノ酸は炭素やら水素やら窒素やらで出来ているが、それが寄り集まっていきなり「わたし」という主体性の現象になっているのは意味がわからない、つまり因果律で言えば「いきなり "わたし" なんて結果が出てきてたまるか」ということなのだが、デカルトでさえこの「わたし」という現象を疑うことはできなかった/あなたの部屋のテレビがいきなりウイイイーンと横向きに走り出して高速道路を滑走していったとしたら、そりゃテレビモニタとは違う軸の機械が入っていたのだとあなたは判断するだろう、それと同じようにわれわれが思い込んでいるこの宇宙には因果律とは違う軸が入っているのかもしれない、ただそれはわれわれの認識機能では捉えられず「分からない」ことだ、それはいきなりウイイイーン走り出したテレビモニタが「何チャンネル?」と訊かれても「そういうことじゃない、何チャンネルとかでは説明できない」というのと同じだ。

全員が「認識」を使っていて、つまらんので、おれはどーも違うやつを使うようになったくさい。

なんというか、おれなんか頭がイイので、認識といってもいまいちツマランというのが先に視えてしまうのだ、だいたい「認識」と鼻息を荒くしても、たいていの奴はその認識機能だっておれより性能が悪いじゃねーか、認識機能しかない上にその性能もいまいちってどういうことだよ、ちゃんと高性能にしろ/認識というと、たとえば今は夜だが、夜といえば昼の反対であって、それは善の反対は悪というようなしょーもないことだが、そんなしょーもないことでは、いつもおれのところに「グイグイ降りてくるこの夜」のことはまったく説明がつかない、昼の反対などというアホの認識しか持たない奴は、罰として夏中ずっとゴムぞうりを裏返しにして履き続けること。
おれが視ているところの「世界」は、何か「それじたいのもの」がゴリッゴリにひしめきまくっている世界であって、その中で100ひく50は「別に50で構わんけど」、そんなもんどうなるものか誰にもわかったもんじゃねえのだ、電車が街を通り抜ける音がしていて、音というとそれにだって原因があって結果としての音が出ているのだが、それ「だけ」ではないのだ、「それじたいのもの」がゴリッゴリにキているのであって、認識としては別に何もない、だがこんなゴリッゴリの世界の中で「認識(笑)」みたいな限定的なものがどうやってそれだけで頼りになるんだ。
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