☆いい女☆で行こう!

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100円をもって、50円のものを買うと、手元に残るのは何円か3
あおれのことだから、テキトーに傲慢にエラソーに言うと、たいていの人は認識を振り回してみてもあまり頭がよくないので、認識というよりは認識に付随した感情を振り回すだけになるし、認識以外の「ひょっとしたら主体性」軸についても、ほとんどの人が言うそれはポワーンとした願望まみれのもので、ご都合とヒステリーにまみれたオカルトを振り回すことにしかならない/そういうものじゃねえよと、おれは両軸について言いたいのだった。
認識だって一つの機能であり能力なのだから、キレッキレの高性能でなくては困る、それでいながら同時に、「おい理詰めで来たのに最後にいきなり超能力使って解決するのやめろ」と周囲に呆れられるほどでなくては困る、そのあたり、認識がポンコツな上に「ひょっとしたら主体」のほうもドインチキというのは本当につまらんのだ、何がつまらんといってそれは両方の「性能が悪い」というだけであって、映りの悪いモニタに映り込んでいるのは何かのヴィジョンではなくただの妄想ゴミノイズだ、そんなものにミラクルな自分の可能性を賭けるなどアホの所業に決まっている、ノーミラクル確定っス。
おれの話していることは、脳みそが混乱して面白くてステキなのだが、まあ認識機能がアメリカのエイブラムス戦車のように頑強で高機動でなければ、このことには本気で入り込んでみるみたいなことはやめておいたほうがいい、認識・因果律の軸をあやふやのアホにしたところで、それで「ひょっとしたら主体性軸」の何かが手に入るわけではないし、触れられるわけでもない/神仏を否定したところでたいていその人の合理性の機能が上がるわけではなく本人が自分を賢いと思っているだけの低性能のバカにしかならないように(ひどい言い方だ)、因果律を否定したところでその人の霊性が上がるわけではなく自分ではそのつもりなだけのフワフワ近所迷惑マンにしかならないものだ、そんな寝言ラリーをしているヒマがあったら両軸においてクソほど自分を鍛えろ、そう言われるとただちに「よっしゃ、やーめた」という決断ができて清々しいだろう、おれは幻想を破壊するために書き話しているのだ。
おれが書き話していることはこのように、論理が破綻していない上に、「お話」としての響きも破綻していない、この両軸をクソほど鍛えて啓けという話であって、知性の低い者が因果律を否定しても霊性は得られないし、霊性の低い者が主体性を否定しても知性は得られないのだ/このことは、せいぜいわけのわからんスリルだけ味わっておくのがいい、フツーにおれが遊びに入っている山の、一合目に入るだけでヘタしたら普通の人は精神を損傷する、因果律と主体性の両方をバッチバチに点灯させ続けるというのはそんな柔弱なモンができるたぐいのことではない、首を吊って死んでいる死体の横でのんびり煙草が吸えるぐらいの鍛えられ方をしていないと精神というのは案外すぐに壊れてもとに戻らなくなるものだ。

「不思議」という言い方があるが、これは「思議することが不能」という意味であって、フシギ〜という少女趣味の印象のことを指すのではない、思議不能のことなどいくらでもあって、それこそカントの純粋理性批判にいくらでも書いてある、あるいは禅問答というやつで「両手を打ち鳴らしたとき、左手からはどんな音が鳴っているか」みたいなもの、あるいは数学的に「目の前にある0個の果物は何種類あるか、その果物は存在しているか」みたいものでもいい、クオリア問題でもいいし五秒前仮説でもいいし哲学的ゾンビでもいいし「ニワトリと卵はどちらが先か」でもいい、世の中には不思議なことがあるのではなくて思議不能のことがいくらでもある、無限大を導入したら数学はあっさり 1=2 を導き出す。
思議不能のことにわれわれは思議(認識)でアプローチできないのだが(当たり前)、ここになぜか、デカルトも認めざるをえなかった「わたし」という現象だけが、「あれ〜 やっぱり "わたし" って現象があると言わざる得ないな」と、思議に対してもその説得力を誇ってしまっているのだ/「それ」に対して思議でアプローチはできないのに、「その思議をやっている当人が『それ』でしょうが笑」という矛盾点を永遠に突かれるのだった。
哺乳類の繁殖は、卵子が精子を授精して、卵割と呼ばれる細胞分裂が起こり、胎児として育っていってやがて出産に至る、そしてオギャーといい数年後にはクソガキになる、ということになっているのだが、そのプロセスのどこでいきなり「ハイ "わたし" キター!」となっているのか、経路不明なのだ、だいいち現在のわれわれの全身だって数十兆個の細胞の群体でしかないのに、これらがどう統一されて「わたし」になっているのか不明だ、「身体髪膚は父母に享く、赤白の二滴はこれ始終空なり」、電気クラゲとして知られるカツオノエボシはそれぞれ別の個体である細胞が寄り集まってひとつの個体になる「群体」という生存形態を持っているし、逆にプラナリアは三つにちょんぎるとそれぞれが個体になって三つの個体に分かれて生きていくのだが、こうなるともう「わたし」って何よということでわけがわからなくなる、あるいは多重人格と呼ばれる解離性の現象で、一人の個体のうちに2500人の人格が同居した例があるという、こうなるともう何が「わたし」なのやらさっぱり不明だ。
われわれが認識機能で因果律をドッコイショと神輿に担ぐのもまあ悪くないのだが、「で、その神輿を担いでいる "お前" は、いつどこからどうやって突然ここに現れたんだよ」と訊かれると、その認識機能を持っている当人という "主体" の成り立ちを、当人が説明できない、そして多くの人はアホなので(悪口)、ここで「認識機能の範囲外です」「つまり思議できません、不思議というやつです」とはなかなか答えない、本当にアホなので(悪口)たいして使えてもいない認識機能でガンバって解答しようとするのだ/認識機能では解答できない(思議できない)のが明らかなものに対し、なぜ執拗にガンバって分かっているフリをするかというと、精神が損傷することを防ぐためだ、あるいは根源的な恐怖、「自分は "主体" なる存在に反してきて、それを侮辱してきたかもしれない」ということに対する耐えがたい恐怖がその防御をさせるのかもしれない。

多くわれわれは、「100円から50円使ったら、残りは120円かもしれない」ということを、なげやりに "死後の世界はそうかもね" と考えている。

死後の世界なんてテキトーに言うけれども、それはわれわれの認識がテキトーに「生死」を分割しているからそう思い込んで言いえるだけで、本当は何をもって生まれてきたのか、何をもって死んだことになるのやら、直接は分かっていまい/救急医療に詰めているドクターでも、何をもって「ハイ死んだ!」というのはよくわからないのだ、よくわからないからこそ、いくつかの徴候をもってそれを「死んだ」と認めることにすると "ルールとして" 定めている、医者にだってそれはよくわからない、医者は病気の専門家であって生死の専門家ではない、亡くなられた方はその瞬間からもう病気でもなければ患者でもないのでただちに退院の手続きに向かうのであって、死者は医者の手から離れている。
われわれは「生死」といってそれをテキトーに分割したつもりになって「認識オッケー」と思い込んでいるだけなので、「生前の世界と死後の世界はどう違うんや」「なぜ違うんや」と訊かれても、けっきょくのところ「さあ?」と逆ギレするしかないのだ、無理やり因果律だけに注目すれば「生きていたから死んだァ! 因果ッ!」と言うことができ、「形あるものはみな滅びる!」みたいな幼稚園児めいたことも言いふらしていられるのだが、そこで因果律では思議不能な「主体」について、「主体という現象それ自体は生きものではないから死ぬこともないぞ」「形はないものだから滅ばないぞ」と言われると、回答できなくなって精神がおかしくなる、そこから因果律マンは「じゃあそんなものは存在しない、主体なんてものは存在しない」と言い張るしかないのだが、「じゃあ "お前" はなぜ存在しているの?」となり、こいつはなぜかわからないが自殺したくなるのだった、あるいは自分を滅ぼす方向へ押し出されるのだった/これは割とマジでこうなることがあるので、まあ急に台無しにして、「あ、やっぱ残金は50円でいいわ。レシートにそう印刷されるもんな」と打ち止めにするのもひとつの冷静な緊急避難なのだった。
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