☆いい女☆で行こう!

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封建制の中に「友人」は存在していない

年ジャンプのモットーは、ご存じ「友情、努力、勝利」だ、今でもこのモットーが保たれているのかどうかは知らない(さすがにもうマンガ雑誌は読まねー)。
むかし、児童が小学校に入学するときには、背後に「ともだち100人できるかな」みたいな歌が作用していたものだが、この「友人」という現象と観念は、文化的に必ずしも存在するとは限らない、文化によっては友人という観念そのものがないこともある。
日本に「友人」や「友情」の現象をもたらしたのは、言ってみれば吉田松陰であって、吉田松陰より前はこの国に友人や友情は存在していない、吉田松陰より前の日本は儒教・朱子学しかない世界であって、「主従」と「奉公」と「親孝行」しかないのだ、友人や友情は存在していない。
明治維新にかかわって、維新志士たちが「同志」という状態を新しく産み出したのだが、これが日本における友人の端緒であり、この端緒を創り出したのは吉田松陰だと言える/さらに過去にさかのぼれば高山彦九郎がいただろうが、当時はまだ時宜になく、高山彦九郎は人々に愛されて面白がられながら、「なんなんだろうなこの人は」という見世物のたぐいに扱われた、高山彦九郎は日本に実在したドンキホーテのようなもので「友人」という現象を人々に与えるには至っていない。

「友人」という現象や観念が、必ずしも存在するとは限らないというのは、少年ジャンプがコンビニに置かれてきたわれわれの世代には意外な驚きかもしれないが、今でも地方にいけば子供はすべて「〇〇さんとこの子」なのであり、お店の屋号があれば「〇〇屋のご主人」やら「〇〇屋の娘さん」なので、本当はそんなに変わっていないのだ、むしろ全体からみればこの国に友人なんて現象はあくまで例外的にしか存在していないと考えたほうがいい。
このあたり、知人や地方の人々、あるいは何かの業者さんと応接するときには、「そもそも人と人の、ヨコのつながりは存在しない」と仮定しておいたほうがいい、封建制における人の関係はあくまで土地の殿様(藩主)に主従として忠を尽くすか、自分の所属する〇〇家に奉公・報恩するか、親に孝行するかという、タテのつながりしかないのだ、ヨコのつながりとしての「誰か」は存在しておらず、それぞれが〇〇さん "とこ" というタテ構造にのみ所属しており、それぞれが自分の "とこ" の没落だけを気にかけているという状態だ、これは封建制として正常なことなのであって冷淡とか頭がおかしいとかいうことではない、そもそも友人や友情という現象が文化的に普遍ではないというだけだ。
現代日本において、あるいは世界中どこも同じような状況下もしれないが、なぜか「友人」という現象が一切得られなくなったので、その挫折感と共に、封建制に回帰しているところがある、漫画「ドラゴンボール」において孫悟空とクリリンは友人だが、どうも現実のわれわれにそういう友人という現象は与えられず、実際には孫悟空は孫家の、クリリンはクリリン家の、それぞれの発展と没落だけを憂いている、そして両家はご近所さんとしてあいさつをしたり地域の会合をしたりするだけという状態だ、誰もそんなドラゴンボールは読まないと思うが、われわれが生きる現実はそうして友人の現象を失い封建制に戻ってしまったと認めていくしかない。
われわれは、芸能人や Youtuber やマンガ家の、急激な勃興や没落を、完全に「ヨソのこと」として楽しみながら見物するという悪趣味をもっているが、この「ヨソのこと」を見物するという趣味が、封建主義の現象に他ならないのだ、われわれにとって吉田松陰の話が、「長州藩の麒麟児が、このように頭角を現し、このように非業の死に向かっていった」と見物されるのみであるのとまったく同様に、芸能人や Youtuber やマンガ家についても、「このように頭角を現し、このように廃れていった」ということをヨソのことして見物するだけだ、むろんそれがおかしいと言っているのではなく、それが封建制だと言っている/おれが友人という現象を否定しているのではない、おれ以外の奴が友人という現象を否定しているのだ、そんなの見りゃわかるだろう。

実際には、「友情、努力、勝利」ではなく、「主従、奉公、親孝行」の中を生きているだろう?

ボブディランのどこを見ても、主従とか奉公とか親孝行が見当たらないように、われわれのどこを見ても、友情やら努力やら勝利やらは見当たらない、だからわざわざ「スポーツ的」な枠を人為的に作って、人為的に作った努力をし、人為的に作った勝利を得、人為的に作った友情のようなものを感じることにしている、人為的にそうしたスポーツ的な枠を作らないと、われわれは努力の仕方がわからず、勝利など「どこにあるかわからない」、そして友情になどまるで心当たりがないのだ/ところが主従や奉公や親孝行と言われると、なぜか何も枠組みしなくても元から「わかります」という感覚がある、そうしてわれわれの所属は少年ジャンプではなく封建制だ。
もちろん明治維新に「同志」と言いうる現象があったとしても、その背後で薩長土はそれぞれ、自分の藩の権勢を有利にするためさまざまな後ろ暗い画策をしていたのだが、まあそんな専門的なことはどうでもいいじゃないか、おそらく当時でもほとんどの人が「ウチの藩だけが大事」という感覚に内心を侵されたままで、吉田松陰だけがその汚染から完全に離脱していただろう、吉田松陰だけが人の世ではなくこの世界にある普遍的な愛の現象を知っていた(おれは西郷隆盛は面倒くさくて敬天愛人の徒とは思っていない)、つまり「われわれは努力するのです、われわれは勝利しなくてはなりません、そのためには互いの友情が何より励みになるでしょう」という少年ジャンプのモットーを、当時から吉田松陰だけが偽りなく掲げることができたということだ、今のわれわれは誰もこんなまともなことは言えない。

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