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WS報告 of 177th /恥に倣え
代の人々に、「痴愚」の印象が蔓延していることを指摘した(ワークショップで)。
この「痴愚」という印象は、知能や知性とは無関係に、何か「どうしようもない」、ボーッとした噛み合わなさのことで、このことが一種の煩悩中毒から発生していると指摘した。
それらはいわば、現代の「実際の三角形」として、その頂点のひとつを為していると述べた、それぞれの頂点は「現代人のオタク化」「現代人のマウントするマン化」「現代人の痴愚化」であり、この三角形が果てしない拡大を続けている。
多くの人は、これを「悪」だとし、それぞれについて「ちゃんとしよう」と、つまりこころを善に入れ替えようとするのだが、これは実はこころの問題ではなく "魂の恥辱" から起こっているので、空回りするのだと指摘した/じゃあ正しく魂の恥辱に向き合えばいい、ということになるのだが、そうはいかないのだ/人は己の悪には向きえても恥に向き合うことはできない、そんな根性を持っている人はほとんどいない。

オタク趣味あるいはむさぼり中毒の一切を、誰もが「やめよう」と反省するし、内心にも起こるマウント精神を「やめよう」と反省する、そして脳みそがボーッとして汚らしいのを「やめよう」と、誰もがこころの底から反省するのだが、これはこころから起こっている現象ではないので、こころを反省させても何ら拮抗作用はない、一時的に表面上「反省しました」というふうになるだけで、「実際の三角形」は拡大を続けている。
ことは魂の平原に起こっていることであり、それは魂の恥辱から起こっているのだが、「恥辱」というものに人はふつう向き合えないので、これをこころの問題、こころのパワー問題にすりかえようとする、これは一種の逃避だ/パワー問題にすりかえて逃避する、その逃避の先はときに能力で、ときに魅力で、ときに努力だ。
だから初めに指摘した「痴愚」の印象も、それぞれに引き当てて「能力痴愚」「魅力痴愚」「努力痴愚」におおむね分類することができる、こんなものは今探すまでもなくいくらでも周囲に発見できる/能力が高いはずなのに「痴愚」の印象がある、魅力を売り物にしているのに痴愚の印象がある、努力を見せびらかしているのに痴愚の印象がある、この痴愚は本当にゾッとする、どうしようもない噛み合わなさと深い苛立ちを内部に感じさせるものだ(当人が己の痴愚ぶりに発狂しそうになっている感じがある)。
なぜこのようなことが起こるのかというと、本来、人の内部では、その魂が恥辱と栄光でせめぎあっているものだからだ、魂の栄光が得られなければ魂は恥辱に敗北するよりなくなる、だから人は魂の栄光を求め、またその人にあこがれ、その人に倣おうとするのだが、その安易な発想では正しく栄光を倣うことはできない/こうして考えると、一夜でなかなか複雑な、奥行きのあることを追究したものだ。

Aさんがそれをすると恥辱になるが、Bさんがそれをやると栄光が視える。

たとえばAさんが女性を口説くと傍目にも「アイタタタ」となるのに、Bさんがそれをすると、何かロマンスや神話があるような "栄光" がそこに現れる、だからAさんはBさんの真似をしようとするのだが、この倣い方はまずもって成功しない、この背後にはまったく思いがけない学門があるからだ。
AさんであれBさんであれ、ブッダやキリストを除いた「人」は、誰であれ恥をしかやれないのだ、<<人は恥をしかやれない>>、にもかかわらず人によってはごくまれに、確かにそこに「栄光」が現れるのを視るのだが、それでも実は「人」としてやっていることは同じなのだ、このことを「恥辱と栄光の同一性」と呼ぶ/AさんもBさんも同じ「恥」をやっている、人は誰しも同じそのことしかできない、けれども、人が視るものは違う、人がやることは恥だけだが、人が視るものはそれだけではないのだ、人は人がやっていること "以外のもの" を視ることがある――それにしても、人は恥をしかやれないので、われわれが栄光の人の何に倣えばいいかというと、<<栄光の人のやっている恥に倣え>>ということなのだ、このことはあまりにも奇想天外で、真に強い人・真に謙虚な人にしかこの生き残りの道筋は発見されない。
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