☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< ドラえもんの警告 | TOP | 黒歴史がない >>
「わからない(の)壁」と外愛
のタイトルはさすがにわけがわからない、が、今のところしゃーない、おれもこの現象が何なのか、掴めてはいるのだが説明できる感じがまったくしない、よって今からする説明は何のこっちゃわからんことになるので、前もってそのようにお詫びしておく。
われわれはどうやら、この世界にあるすべてのものを、どこか「わかる」と誤解しているようだ、それは完全な誤りであって、何かが「わかる」気がするのは完全な錯覚にすぎない。
ではその "完全な錯覚" がどのように得られるかというと、それは何かを理解するということであり、さらに言えば何かを「身につける」ということだ、驚くなかれ、何かを「身につける」というのはこの世界に対する完全な錯覚・誤解に陥るということに他ならないのだ、こんなもん何のことを言っているのかさっぱりわからないだろう。
この世界にはせいぜい、「わたし」という現象と、どうやら「わたし」でない一切の外界のものがあり、それがつまり「世界とわたし」、むつかしく言えば「梵我」ということになるのだが、この「わたし」と外側の「世界」のあいだには、どうしたって「わからない」という壁があり続けるのだ、この「わからない」の壁が破壊されることは一ミリもなく、むしろわれわれはこの「世界」と「わたし」がつながっているという誤解を獲得してそれを増幅していくだけで、わけのわからない一生を過ごすというのが真相のようだ、もちろんおれのような偉大なる大天才の場合は例外だが、その偉大なるおれさまからしても「さすがにこんなこと気づけねーだろ」とあきれ果てる具合になる、こんな根本的なトリックにどうやって気づけというのだ、一切のことは「理解された」あるいは「身についた」という誤解でしかないというとんでもない話だ。

「わたし」と外側の「世界」は、決してつながることはなく、一ミリだって変動しない壁、「わからない壁」に閉ざされており、であるからわれわれが一切について「わかる」と思っていることのすべてが誤解であり錯覚なのだ、そもそも「わたし」がこの世界に対して「わかる」ということ自体が理論上ありえないのであり、いわば「わかろうとする努力・気持ち」でさえその時点ですでに錯覚であり誤解だと言える(といって、そういう気持ちをゼロにできる奴が本当にいるのか)。
一方で、まあまったく驚くしかないことに、この完全な壁・完全な隔壁がある一方で、やはり「愛」という現象はあるようで、まさに思議不能なことに、完全な隔壁で閉ざされている向こう側と、完全に閉ざされたままつながるということがあるようなのだ、なんのこっちゃわからんと思うが/それどころか、より厳密にいえば、「愛」という現象はそのように完全な隔壁が "あってこそ" 起こる・認めうる現象だということになる。
だからそれを強引に言おうとすると「外愛」ということになる、隔壁の外側に起こる愛ということだ、うーん何のこっちゃわかってたまるか/「わからない壁」というのは本当にとんでもなくて、そんなもの自分がするクシャミひとつだって本当は「わからない」のだ、何かを「わかる」という現象は本当は存在しておらず、すべて自分の錯覚でしかない、いくら解剖学に詳しくなり生理現象に詳しくなったところで、それが「わかる」というのはすべて錯覚だ、「わたし」の中にエセの「世界」を混入させて生じた誤解であり、これが入り込むほどに「愛」という現象は遠ざかっていく(現実的には、ほんの微量でも入り込むともうダメ、実効的に愛ゼロになるという具合だ)。
これはつまり、現実を見極めろということなのだと思う、現実を見極めるとやはりすべては「わからない壁」で完全に遮断されているのであり、われわれがこの世界の何かを「わかる」ということはゼロなのだ、これはあたかも、現実的なわれわれが生身の感覚をもって「お話」の中に入ることはできないということに重なっているようだ、われわれにとって「お話」こそ完全な外側にあるものであって、われわれは壁に閉ざされて何もできないのに、「お話」はそれを飛び越えて結合作用を起こしているようなのだ、もちろんこんな話について誰かに何かがわかるわけがない、実際にこの現象を目の当たりにすると、それはもう「げっ、何これ!?」と声を出して驚きたくなるぐらいのものなのだ。

わたしはどうやら、「お話」と歩いており、「お話」と寝ている/外側に出ようとしたことは一度もないし、外側から入れようとしたことも一度もない。

外側とは完全に隔たれているのだから、自分から外側に出るとか、外側から自分に入るということは、一切ないのだ、すべてが「わからない(の)壁」に隔たれており、この隔壁に面したまま「お話」を突っつくと、なぜかその「お話」だけが壁の向こう側に対して結合作用を及ぼすことになる、それで「げっ、何これ!?」となる/お話はもともと神話としての仕組みがあるようだし、神話の仕組みがあるからそこから遠く離れた新しい「お話」を自分として構築することもできる(言っておくが、ここでいう神話って "人が思い付きで言い出したカミサマの話" って意味じゃねーよ)。
考えてみれば、おれは自分から人に何かをしようとしたことは一度もないわけで、世界に対しても何かをしようとしたことは一度もないわけで、ただあらゆる場所で、またいろんな人に向けて、何かしらんが「お話」がどんどん発生していく、創られていく、ということをわけのわからないまま目撃してきただけだった、このごろは一部だけ他人のことをわかろうともしてきたが、それらはおれの引き起こしている作用の根本とはまったく無関係のことだ、けっきょくはまたおれが「わからないの壁」の中から「お話」をやって、「げっ、何これ!?」というやつを使うしかないのだ、この作用が逆にけっきょく「止まらない」というのもある意味おっかない事実だと改めて思うのだった。
正しく見ないとな | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |