☆いい女☆で行こう!

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人間関係の正と誤
「人間」はニンゲンもしくはジンカンと読み、もともとは単体の人を指す語ではなかった、そりゃ読んで字のごとく「人と人のあいだ」を指す語だったろう、つまり「人らしさ」と「人間らしさ」はまったく別の意味だった。
今、人間関係という言い方があって、どこにでもある「人と人」の関係、また立場の関係、しがらみや力関係、憎悪や怨恨や欲望や金銭の関係、仕事の関係、等々、すべてひっくるめてそれらを「人間関係」と呼んでいるだろう。
今さらその社会通念上の語を書き換えようと唱えるつもりはさらさらないが、おれの知るかぎり、今一般に思われている「関係」ないしは「人間関係」というのは全部誤りで(ひどい話だ)、関係というなら人間関係とはまったく違う「関係」と呼ぶべき現象がある、おれはもともとこの現象をニンゲンとかジンカンとか呼んでいたのだろうなと思っている。
「人間」という語を図式にすると、[人−人]となり、人間というのはあいだにあるハイフン部分のことを指すことになるが、このハイフン部分に事象の「主体」があるのだ、わたしでも彼でもなく「関係」に主体がある/おれはこの現象を発見しているしすでに実用というか愛用しているが(便利なので)、この現象はあまりにも説明しづらいし、説明したところでどうせわかりっこない上に誰もがわかったふりをしそうなので説明するのがイヤなのだった、これはハイレベルだがイージーな現象で、誰にもできねーたぐいだろうがこれが万事を一番かんたんにする方法だ(うーんこれは説明する気がねえな)。

一般に人間関係というと、「わたし」というこちらの主体と、「彼」という先方の主体があって、それが相互にやりとりをするものだと思われている。
まあ、「それならそれでいいじゃん」と投げ出してしまいたくなるのだが、「わたし」という主体と「彼」という主体は別の主体、分かれている主体なので、この主体が「関係」を持つということは実際にはないのだった/では「わたし」という主体と「彼」という主体は何をしているかというと、「ぶつかる」か「癒着する」のどちらかでしかないのだった、まったく辟易するネタでもう考えるのも面倒だが、これが当たり前の真相であって、このつまんないこと以上に真理はないのだ。
説明する気がしないので、今からおれの言うことを、超絶理性でクレバーにスマートにクールに理解するように、「わたし」という主体と「彼」という主体は、それぞれ別個の主体として分かれているのだから、こんなものつながりようがないじゃないか、つながらないということはどうなるか、それはぶつかるしかないのであって、残されるのはもうひとつ、互いあるいは一方がつながった「つもり」を思い込み続けるしかない、それはいわゆる「甘え」であって、土居健郎が定義した通りだ(今どき土居健郎の「甘えの構造」なんか読んでいる奴がいるのだろうか)。
説明する気がでないので、とりあえず悪口でも言って元気になろうと思うが、たとえばどうしようもないクソみたいなクソ田舎にいくと、人々が異様にベッタリとくっついて付き合っていたり、同時にその一部では猛烈に嫌いあっている・憎悪しあっているということがあったりするはずだ、これがつまり「ぶつかるか癒着するかどちらかしかない」ということ、こんなものはもう面倒くさいので「カミサマから見放されたらそうなるに決まっているよぉ〜オロロンッ」と名台詞を吐いてごまかしたいところだ/人と人がぶつかるのは「人間」ではないし、人と人が団子になるのも「人間」ではない、じゃあ人間じゃなければ何かといって、もう「人間じゃなくて田舎だよ」と投げやりに言いたくなる(田舎が悪いのじゃない、そこで人間を失う人がこのことを引き起こしているだけだ)。

「おれ−彼」があったとして、おれが彼に何かを話すことは決してないし、彼から何かを聞くということも決してない。

おれは厳密に「人間」が好きなので、おれが彼に何かを話すことは決してない、おれの口からナイスな声が響いていたとしても、話しているのはおれじゃない、「−」だ、人間が話すというのはそういうことだ、それがニンゲンあるいはジンカンという現象であって、そのことの気分のよさに比べたら「人が人に話す」というような面倒くさいストレスアンドダメージの行為は井戸に泥団子を投げ込むような行為でしかない(投げやりなので例えになっていない)。
一般的に言われている「人間関係」は、浪花節と衝突と癒着のドッコイショであり、本当は一生に一度も体験しなくていいものだ、本当は「人間」という現象があれば、一般的に思われている「人間関係」なんてものは要らないのだ、きっと伝わらないと思うが、正しく「人間」という機能それじたいが主体となってコミュニケートするとき、何かを話してから伝わるのではなく、 "伝わってから話す" のだ、そりゃそうだろう、先に伝わっていなきゃ誰がそんな面倒くさいよくわからない話を聞くのだ/話してから伝わると思っている人は善人であり、相手も話を聞いてくれると思っていて、自分も人の話をちゃんと聞いてあげるつもりでいるのだろうが、端的に「おれはイヤ」だね、先に伝わっていないものをたっぷり聞いたところでやっぱり伝わるなんてことはないのだ、衝突はサイアクで癒着はさらにサイアクなのに、一般に人間関係というとこの二つしかないのだからおれとしてはただちに高原できれいな女とデートすることに逃避したくなる、伝わってから話すしかないし伝わるのに必要な時間はゼロ秒だ、正しく「人間」という語義を見ろ、おれがそのとき単体の人でなく「人間」で、相手も同じく単体の人でない「人間」になっているのだから、人間から人間に伝わる時間はゼロ秒じゃないか、そんなもんおれがいつもやっている「女がオチてから口説いている」という事実を見ていたらわかるだろ、先に落としてから口説くのが当たり前だし、先に伝わってから話すのも当たり前だ。
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