☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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搾ると奉るの性質
は何もしないということができない/何もしなければ平穏なところ、人は搾ったり奉ったりする。
たとえば江戸時代は武士が平民を搾り、徳川家が諸藩を搾った、戦中は天皇を奉り国民を搾ったともいえる、そのあたり明治維新では奉る先と搾る先の変更を試みたともいえる。
人は何もせずには生きられないのだ、仮にどれだけ資産があっても、それとは無関係に「搾る」と「奉る」をやってしまう、なぜこれをやってしまうかというと、人はやはり死んでしまうからだ、有限の生をただ生きられるからといって本当に「何もしない」で生きられる人はいない。
1990年代に、女子高生および女子中学生を、スターダムに押し上げて奉ろうとするブームが起こり、また平成を通してそうした「女の子」的なものを奉りその他を搾ろうという発想が貫かれたが、これはけっきょくのところ失敗で、過去より女性が存在的にうつくしいということはなくなり、同時に失敗をやらかした男性たちもうつくしさを失った、それは失敗のベナルティとして当然のことだ、にも関わらずこの発想は現在も続けられていてペナルティも加速している。

わけのわからない動力によって、人はこの「搾る」と「奉る」をやめることができない/永遠のいのちでも得ないかぎりこのことはやめようがない。
わたしは世間に接触するたび、いっそわたしには無関係でしかない人までもが、異様な執着とはたらきかけで、無自覚に強制的に、わたしのことを「搾ろう」とすることを見てきた、それらのことはずっとわたしにとって「???」だったが、今になってわかる、これは自動的で強制的なものなのだ、当人らの意思に関係なく彼らは自動的にわたしを「搾る」ということにしか挙動しない。
かつてパリサイ派がイエスキリストを磔刑に処したが、それもパリサイ派がイエスキリストの血を「搾った」と捉えれば、彼らはそれをせざるを得なかったことがわかるし、彼らはけっきょく始終そのことにしか挙動しないということがわかる。
なぜそうまでして「搾る」「奉る」をやめられないかということ、および、なぜイエスキリストに対しても「搾る」組と「奉る」組がくっきり逆向きに存在するかというと、「すべてをバラバラに分割したい組」と「すべてをひとつにしたい組」に分かれているからだ、バラバラに向かう組はつまり悪魔を奉っており、ひとつに向かう組は神を奉っている、人はこの原理において「搾る」「奉る」をやめることができず、どちらにも向かわないという選択はできない(自動的にどちらかに向かっている)。

おれを搾るのは、おれは構わんが、おれを搾ったらたぶん魂はバラバラに向かうだろう。

おれには自分を搾るクセがあり、ふと気づくと誰かに言われるがままに自分を搾ってしまっていることがあるのだが(というか気づくといつもそればっかりだが)、おれが自分を搾った先に、その相手が何かいいことになった試しはない、おれがおれを搾ると相手はメキメキ満足はしていくのだが、その先に魂はとんでもないバラバラのコナゴナになってしまう、まあそれが当人のリクエストだったのだから満足というのも納得だが、何のアナウンスもなしに自動的にバラバラコナゴナコースというのもアンフェアかもしれない/あるいはきわめてフェアなことかもしれないけれども。
困ったことに、おれには自分を搾るクセがあり、一方で他人を搾るという発想や感覚がよくわからないのだ、それで気づけば自分を搾っているのだが、これが人の魂を真っ逆さまにシュレッダーに放り込むことがよくあるということも自覚している、そして逆におれを奉って自分を搾った人がどのように恢復を得るのかもいいかげんさんざん見てきてよく知っているのだが、知っているくせにやり方や発想がよくわからないのだ、すべてはおれがおれ自身を奉っていないところに問題がある、そして世の中のほぼすべての人はおれと違って自分自身を奉っているものだから、自動的におれが搾られる側になるのだ、まあ全体的にヘーキなら別にいいんじゃねという気もするのだが、一方で時間はまったく残されていないという気もヒシヒシしているのだった。
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