☆いい女☆で行こう!

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搾ると奉るの性質2
折さんを「砕いて搾る」のはよくない、そのエキスを吸い取ると「なるほどトクをしたぜ」という感じにはなるのだが、表面上はそうでも水面下ではがっつり呪われるので、結果的にプラスにならない/いいかげん、そのあたりのコツというかパターンを覚えろ、九折さんを砕いて搾ってそのエキスを吸収するなんてまともな結果になるわけがないだろ。
この問題について、いつも同じようなことを言っているような気がするが、問題の本質はおれ自身が「九折さんを砕いて搾る派」だということにある、これがいつも問題の中心にある、だからほとんどおれのせいなのだが、おれのせいとは言ってもおれにもそれなりに苦手分野があるものだから、そのへんは誰かというか、全員でカバーしていこうよと言いたいのだった/おれは自分を奉るとかいうことがどうしてもアホの権化のように思えて、そうとう気合を入れないとそういう発想を忘れてしまうのだった、それで巨大な呪いが湧きおこってきても、けっきょく「おれだけは平気」というサイテーなシナリオになることがよくある、まあこのあたりは九折さんの取扱説明書として「厳重注意」と書いておかねばならないどうしようもないポイントなのだ。
世の中には当然、おれという一人の個人に対しても、「九折さんを砕いて搾り、その丹精を自分が吸ってあげる派」と、「自分自身を砕いて搾り、その丹精を九折さんに吸ってもらう派」という二種類が存在する、もちろん大多数は前者であり、おれという一人の個人に対しては、砕いて搾ってその丹精を吸い上げ、死ぬまで搾りとっても「チッ、このていどかよ」と不満タラタラというのが事実だろう、それは残酷なことではなく当たり前のことであって、人は何かに極端に目覚めていないかぎり、制度の強制力から外れると自分と身内以外のことは全員死ぬまで搾るしか使い道のない奴隷と思っているものだ、「自分にとって他人なんか何の値打ちもない」、このえげつない真相を覆い隠すために人類は互いに制度で自分たちを抑圧しあってきた。
それで、衆寡はともあれ、分類としては「九折さんを砕いて搾る派」と「自分自身を砕いて搾る派」があるのだが、問題の中心は、おれ自身が「九折さんを砕いて搾る派」だということだ、これは構造上やむをえない/なぜ構造上やむをえないか? 十秒与えるので考えてみよう、……、頭のいい人はすぐにわかったように、おれは自分自身が九折さんなので、おれが「自分自身を砕いて搾る派」である以上、おれは「九折さんを砕いて搾る派」になってしまわざるを得ないということだ、この構造がきっちり明視された人にとっては「なるほどそりゃそうか」ということで、すべての話はすでに済んでいよう。

もちろん、人は生来のものとしては、他人を砕いて搾り取るのが正常なのであって、おれが自分自身を砕いて搾るのは生来からは「異常」だ、この生来からはたどり着けない異常性に到達しようとしてボランティア等の制度があるが、制度に依るということはけっきょく制度の強制力に支配されているのであって、自分でそのことを決定したことにはならない、ふつう人は自分自身の側を砕いて搾るという決定は生きているうちに一度もできない/だから、いわゆる「善人」で「正常」な人ほど、その性質は生来から「他人を砕いて搾る」ということに素直に従っている、それが包み隠されているにせよ生来としては「正常」なのだ。
どのような仕組みによって、人はその生来からの正常さ、善人にぶりによって、けっきょくは「九折さんを砕いて搾る」派であることを自らに決定し、その態度をあきらかにしていくのか、この仕組みをよく知ることが必要だ/人は、卑屈主義の苦しみによって、また「不安」という際限のない恐怖の苦しみによって、それから逃れるために、自らではなく他人を砕いて搾ることを発想する、これは自動的にそうなるのであって当人がそのように自覚しているのではない、本当に完全に自動的にそうなる。
いわば、「それどころじゃない」という言い方をあてはめるのがわかりやすくていい、卑屈主義の苦しさによって、また「不安」という際限のない恐怖の苦しみによって、人は基本的にいつも「それどころじゃない」のだ、「それどころじゃない」ということはつまり、第一に優先して得なくてはならないものがあるということだ、自分の卑屈主義が癒されるために、また不安が少しでも安心にすりかわるように/そのためには、他人を砕いて搾り、その丹精を効率よく吸い上げることになる、それによって「ふう、少し落ち着いた」「少し安心が得られた」「ちょっと前向きになれた」という心地になる、いつも善人および正常な人が追いかけているのがこれだ、このことのためにはいくらでも他人を砕いて搾ることをする、当人はそのときまったく善なる行為の中いるという心地でいっぱいになる(不思議だが本当にそういうものだ)。
なぜ圧倒的多数の、善人で正常な人が、つまりは「九折さんを砕いて搾る」派になるかというと、魂の奥底ではいつも「それどころじゃない」、卑屈主義と「不安」に苦しめられているからだ、それから少しでも楽になりたい、その衝動がいつも切迫しており、そこで目の前のおれのことも第一に「砕いて搾ろう」「その丹精を吸い取ろう」とする、それによってのみ自分が救われるのだからしょうがない、こうして当人は、善なる心地の最たる際において、九折さんを砕いて搾ろうとする、その自動的な発想は、自分の不安を安心に切り替えてくれ、自分の卑屈を解放に切り替えてくれるように感じられるのだ、そして自分で砕いて搾ったその先に「感謝」をして満了となる、これによって善なるここちは完成する。

善人で正常な人は、卑屈主義で、いつも「不安」の中にあり、けっきょくは他人を砕いて搾ることを唯一の発想とせざるを得ず、自分のために砕いて搾ったそれを吸い取って「感謝」をして満了する。

だから善人というのはいつも「いろんなものに感謝」みたいなことを言っている、いつも控え目なつもりで卑屈主義を振り回しており、いつも自分が生きていくことの「不安」の中にいる、周りの誰から見てもこの人のことは「異常」には見えない、この中で当人がどうやって「悪」に気づけようか?/その逆を考えてみればいかにも明らかになる、いつも「感謝なんかしたことねえよ」と言い、いつも解放的で卑屈性がまったくなく、どんな環境でも「不安」とはまったく無縁だ、周りの誰から見ても何かしら「特殊」「異常」と見えるこの人は、一般的には確実に「悪」のたぐいに見える。
すべての善人に告ぐ、またすべての「正常」と扱われている人に告ぐ、誰だってそれなりに必死に生きているし、それなりに真面目に、懸命に生きている、では "何のため" にそのように必死に懸命になってきたのか? それは自分の卑屈主義のためであり、また自分の不安のためだろう、解放の中、また不安とまったく無縁の中で、なお自分を砕いて搾ってきたということをれっきとして言い張ることができるだろうか、そんな人はきわめて少ない/ほとんどすべての人が奉っているのはその卑屈主義の苦しみと不安の苦しみであって、そのことのために九折さんを砕いて搾るということへ自動的に動かされているはずだ、そのことが悪いとおれは言っているわけではない、それで本当に解決するのか、呪いが次々に打ち払われていく場所に立っているのか、ということを訊いているだけだ。
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