☆いい女☆で行こう!

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音楽と世界の子
、エレクトーンがめちゃくちゃ上手な、中学生の女の子を見たことがある。
鍵盤の上を運指が駆け巡るようで、足許は器用に見えないところの鍵盤をやはり正確にリズミカルに踏んでいるのだから、率直に「すげえ!」と思った、詳しくは知らないが何かその筋での特待生になっていた女の子だったらしい。
一方で、今でも記憶に確認できるところ、そのめちゃくちゃ上手な演奏に、一種の違和感を覚えもしたのだった、そして当時は違和感でしかなかったものが今ならそれが何の違和感だったかを説明できる。
その女の子は、技量としてはめちゃくちゃ上手でハイレベルだったのだが、その女の子の中に音楽が流れているわけではなかったのだ、無機質な全身のまま懸命に演奏をつづげている/それはいわば両手両足で「譜面をさばいている」というような状態で、おれが目の前で目撃したのは技術ではあったが音楽ではなかった。

今になっておれは、おれ自身と、あとはごくわずかな人だけが、「身体の中にまで音楽が流れる」タイプだということを断言できる。
身体の中にまで音楽が流れる、それはキャッチーな言い方にすぎず、本当は魂の中にまで音楽が流れるということだが、魂の中にまで音楽が流れるということは、魂の中ではそれはすでに「音波」ではないということだ、魂というのはイイカゲンなものなので(「魂」という字がもともとそういう字義だ)、魂の中に流れる音楽はすでに音波ではなくなっており、ひとつの「世界」になっている、そこで先に述べたハイレベルな演奏少女は、何の世界もなく鍵盤を弾きこなしていたということだ、それは人を含めた生きものすべての「業(カルマ)」の表れということになる、それは業のすさまじさが技量となって表れたということだ。
現代と過去を比較すると、現代はありとあらゆることについての単純技量が破格にレベルアップしていると思うが、このレベルアップの背景に、「異様に割り切った人たち」を目撃してきたということが、事実としてあったはずだ、イチローなどのヒーローを別にしてということになるが/一部の人は、自分の挙動が「魂と無関係になる」ということを割り切ってしまい、魂を捨てて単純な技量だけを向上させて、承認欲求と自己顕示欲を満たし、また生業を得ていくということを選んだ、現代における技量の破格向上はこのように起こってきている。
魂と一緒に挙動しながら、ハイレベルの技量を見せるということが困難なのだ、魂を放棄してハイレベルな演奏をすれば、それはつまり人体から魂を抜いて、機械化、シンセサイザー化したにすぎない、だからいわばそうした「ハイレベル化した抜け殻」は、その高度な技量を見せつけて承認欲求を満たしながらも、そのことに何ら魂のよろこびを見出していない、だからそういう人はたいていアニメオタクやアイドルオタクで自分を慰めているという側面を持つ/魂のよろこびが得られない人は、必ずそうしてテンションや甘みで自分をなぐさめるしかないのだ。

冷静に考えろ、上手であることじたいに意味はない。

ここで仮に、異性の性器を揉みこするのが極端に上手な男女がいたとする、この男女が何ら魂のよろこびを得ないまま、互いに性器を揉みこすりあうことには何か意味があるだろうか? それは技量としてハイレベルだから、技術的には余人の追随できるところではないかもしれない、だが「なんで性器を揉みこすりあってんの?」と言われたら真相がすべてを粉々に砕いてしまうだろう、よく見ろ、上手だからだまされているだけで、エレクトーンからピコピコ音が出てもそのことには何の意味もないのだ、われわれはまったく別のものに気圧されている。
人から魂を完全に抜いて人体を機械化し、この人体がたとえ空中で五回転しようが、200km/hの玉を投げようが、500BPMのドラムを叩こうが、そのことに何の意味があるのか/現代においては、むしろ自分の生きていることに「何の意味もない」と感じ続けた人が、「それならいっそのこと」と魂を完全に売却し、そのかわりに割り切ったハイレベルの技量を得ているということが多い、それはいかにも現代の時勢ではあるが、おれはそれを眺めながらもまったく合意はしていない。
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