☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
<< 音楽と世界の子 | TOP | 音楽と世界の子3 >>
音楽と世界の子2

の中まで音楽が流れている人と、そうでない人とはまったく別の人種だ。
魂の中まで音楽が流れている人にとって、音楽というのは音ではない、どこからともなく姿を現してくる何かの「世界」だ/譜面を追いかけている技術者と世界を追いかけている音楽家ではやっていることがまったく違う。
面倒くさいのでテキトーに断言するが、おれは確実に魂の中に音楽が流れるタイプで、このタイプは数的割合としてごく少数派だ、このタイプは音楽に「何かを感じる」という次元にない。
音楽に「何かを感じる」という次元ではなく、音楽に「もともとあった世界を思い出す」という次元にいる、魂の中にまで音楽が流れている人とはそういうタイプで、流れている音楽を聴いているのではなく、音楽の中に流れている何かを聞いてしまっている、これはタイプ・人種の違いであって技量や才能がどうこうという話ではない。

単に耳のいい人は、「音色」が主として聞こえるだろうが、世界の子にとって音色は副産物、つまり主ではなく副に聞こえる。
ある種の画家が、技術的にきわめて正確に、視界の寸法を測れるのと同じように、音だって実は「イメージ」で、映像ではない音響のイメージというものがあるのだ、耳のいい音楽経験者・あるいはその訓練を受けた人は、やはり訓練された画家が寸法を測るように、音階や和音を聞き取る。
そして、そうした技術感覚に優れた人は、よりよい「イメージ」を産み出すことができるが、そのよりよいイメージが「何なのか」を産み出すことはできない、「よりよい」ものを産み出せるのだが、このことはけっきょく品評会でウケるというだけで、普遍的に人に必要とはされない。
おれのようなタイプには、二種類の感動があって、ひとつには同じ「世界の子」が何かを世界を描きだして、そのままそれに感動しているケース、もうひとつには、そこには何ら世界が描き出されてはいないのだけれど、退屈に感じたおれが勝手に世界を読み取ってしまって感動してしまうというケースだ、つまり「世界の子」が聞き取っているものと「人」が聴き取っているものはまったく違う。

「世界の子」の背景に音楽を流すと、なぜか「この人の音楽かな?」というふうに見える。

音楽だけに限ったことではなく、たとえば何でもないひとつの場所、何かだだっ広い公園や明晰、あるいは夜景の広がる街があったとして、なぜかそこに「世界の子」が立つと、そこが「この人の場所かな?」と見えるのだ、どこかの場所に人が立っているというのではなく、「その人の場所にその人が立っている」というように見える/同じように、音楽が流れている中に人がいるというようには見えず、「その人の音楽がその人と周囲に流れている」というように見える。
おれが目撃した、エレクトーンが抜群に上手な女の子は、おれの目の前で「エクレトーンが抜群に上手な女の子」でありつづけ、そこに流れているはずの音楽とはまったく無関係な存在だったのだ、だからいくら上手に演奏されても、何に出会うわけでもなければ誰に出会うわけでもないので、意味がない、ということになる/まあ冷静に考えることだ、いくら手足で楽器を操作したとして、それだけで人が芸術的な存在になるわけがない、そんなこと本当は誰だってわかっていることなのだから、つまりは誰もが目を背けているというだけでしかない。

正しく見ないとな | comments(0) |
コメント
コメントする










| /PAGES |