☆いい女☆で行こう!

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音楽と世界の子3
が蝶々を見続けていたとしても、人が蝶々になるわけではない。
サナギがやがて破れて中から羽を伸ばした蝶々が出てくるのを、じっと見ていたとしても、それはただの「観察」であって、人が蝶々になれるわけではない。
たとえそこにどれだけウットリし、何か自己陶酔や妄想、あるいは空想的甘露に浸ってみたとしても、蝶々になった気分になれるのは中学二年生の当人だけで、傍から見れば「何やってんの」と正体不明の、単なる気分的自失でしかない。
音楽を聞くとか演奏するとかも同じことで、音楽を聞いてウットリすることは、大半の人において愉しまれる行為だが、別に意味はなくて傍から見れば「何やってんの」だ、そこはわれわれが文化的・芸術的なるものの風聞に対して価値観を欺瞞されているだけだ、つまり何か上等なことだと思い込まされているだけであって、大半の人にとってそんなことは何の意味も値打ちもないのだ。

ただし、ごくまれに、たとえばXという音楽を演奏するなり聞くなりすると、その人そのものがXになってしまうということがある。
その現象は、いわば「刑事コロンボ」と同じだ、どんな俳優でも、あるいはシロウトでも、刑事役なんて誰でもこなして演じられるものだが、ピーターフォークのように本当に刑事コロンボに「なってしまう」例はきわめてまれだ。
役者は誰でもその役に「なりきろう」として自己洗脳と陶酔をほどこしていくのだが、それでも傍目にみればやはり「何やってんの」のたぐいでしかなく、まあ誰がどう見ても「役者が芝居してるんじゃん」としか見えないのだ、ところが例外的に刑事コロンボのような場合、どう見ても「役者が芝居をしているという認識ができない」「その認識が数秒で吹っ飛んでしまう」ということが起こる。
音大生が発表会でピアノを弾いていると、特別な訓練を受けているので技術的には厳しく上手なのだが、何をやっているかというと「音大生が発表会でビアノを弾いている」としか見えない、そりゃ当たり前だ、発表会でそれが吹っ飛ぶということはシステム上まずない。
そして音大を卒業しても、ピアニストがピアノを弾いているという発表会やコンサートはいくらでもあるのだが、それら発表会やコンサートが吹っ飛んで「ベートーヴェンをやっている」というふうに見えることがあるかというと、このことはきわめて少ない、いろんな演奏家がいろんな解釈といろんなテンションでいろんな演奏会をするが、それが吹っ飛んで演奏会というイベントでなくなるということはめったに起こらない/たとえばおれの場合、「エリーゼのために」さえ挫折するピアノ未経験者なので(そもそもヘ音記号が読めないので)、おれがもしピアノを弾くとなったらデタラメに鍵盤を叩くしかないが、それでも少なくともおれの場合、「デタラメに鍵盤を叩いている人」には見えなくなるだろう、だからこれは技術ではなくてタイプ・性質・人種なのだ。

あなたがテーブルをリズミカルに叩けば、あなたは「テーブルをリズミカルに叩いている人」になってしまう。

そうではないのだ、そうではないものがあるのだ、そしてそうではないものがいきなり出てきてしまうのが「世界の子」であって、このことは技量とはまったく無関係なのだ/おれの直接の知人はよく知っているように、おれの場合、菜箸で台所の什器をテキトーに叩いていても、その聴力がある人はただちに聞きつけて「うお、すげえ!」と反応する。
おれには音楽の素養なんて何もないし、それで言えば文学の素養もないのだ、おれがここに書いているものも、菜箸で台所の什器を叩いている具合と変わらない、おれの場合は菜箸で醤油ビンの蓋を叩いた音も、窓から吹き付けてくる風も、夏の空の青色も、すべて魂の中に流れて魂の中に映し出されているのであり、人の認識機構が見ているものとは性質が違うのだ、コンビニで売っている食パンと銀座のパン屋で売っている食パンは味のレベルが違うと思うが、その両方ともおれが手でちぎってあなたに与えれば、まったく違う次元の食事とパンが出現するのだ、おれが手でちぎってあなたに食わせたコンビニの食パンであなたが食事に満足しないということは決してない。
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