☆いい女☆で行こう!

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「キラキラしている」とマジで思っているらしい
とえば女子高校生の四人組が家に集まって、父親のお酒をこっそり持ってきて、部屋で宴会をして、女の子同士でちょっとキスしちゃったりして、はしゃいで笑って、その写真をSNSでアップロードしたりすると、一部の人はそういうものを本当に「キラキラしている」と捉えるらしい。
一部の人がそう捉える、とは言ったものの、すでに構図は逆転しきっているというか、もともと構図はおれの思っているのと逆だったっぽいので、つまりおれが逆側の「一部」でしかないのだろう、だから言いなおすと「おれのようなごく一部の人はそういうものをキラキラしているとはまったく捉えない」ということになる。
なんというか、現代の若年層は、本当に頭の中にマンガとアニメとアイドルしかないので、そういうマンガチックなものを本当に「キラキラしている」と思うのだろう、そして高年層はどうかというと、高年層は何かよくわからんが老人を中心として常にブチギレ寸前の発狂寸前という印象しか受けない、老人といっても老人はほぼすべての時間をテレビに費やしているのだから、テレビ業界をアイドルグループが席巻するようになってから以降は、脳みその具合がやはりドルオタになったのかもしれない/といって、老人に若い子のキャピキャピ集団を見せられても自分は老人なのだからどうしようもなくブチギレが蓄積していくのは何となくわかる気がする(いやウソだ、そんなのさっぱりわかんねーよ)。
おれの感覚ではどうしても、マンガチックなイメージ、その「キラキラしている」だとか、陽キャだの陰キャだの言っているようなこと、若い人同士のキャラでしかない会話や関係など、ずっと「一種のジョーク」に見えているのだが、よくよく考えたらこんなに多数の人が一斉にそんなジョークだけを長期間続けるわけがないのだ、だからガチのマジでやっているのだろう、マンガのカッコいいセリフをネタでなく本当にカッコいいと思っていて、ボブディランが唄うのもキング牧師が演説したのも全部マンガの一種にしか聞こえていないのだと思う、それはもう本人の趣味の問題ではなく脳みそのフォーマットがそれなのだろう/すべての情報が「マンガチックイメージ」に変換されて脳みそに届くようになっているので、それはもう文化の差というより、生きものとしての種の差みたいなものになってきている。

おれのようなごく一部の極小数派から言わせれば、「キラキラしている」というそれは、「マンガ的なイメージをなぞっているだけ」でしかないし、多くの人がこころと思っているものも「マンガ的なイメージをなぞっているだけ」でしかないし、魂と思っているものも「マンガ的なイメージをなぞっているだけ」、友人と思っているものも「マンガ的なイメージをなぞっているだけ」、結婚式やお葬式でさえ「マンガ的なイメージをなぞっているだけ」だ、先ほど述べたようにマンガが脳みその母国語になっていてすべてがマンガチックイメージに変換されるのだからどうしようもない/どうしようもないというか、どうする必要もない、あくまでそれを現在の標準的事実だとするなら、万事をマンガチックイメージに置き換えるのが「正常」なのだから、それをどうにかする必要はまったくない。
ただおれは、気づけば毎日それをしか周囲に目撃しなくなった、マンガチックイメージの当事者たる若い人たちのやりとりと、年齢的・造形的に当事者にはなりえなくてブチギレている老人たちのありようを見ていて、「ううーむ」と、いわば「おれの知らない何かの世の中になりつくしてしまった」ということに、もはや慨嘆を覚えるでもなく、憮然としているだけだ、こんな話をしていても「慨嘆」も「憮然」もマンガチックイメージに置き換えられるのだから、「まあおれの知らない、違う何かになるよな」と理解されて、何かがますます遠くなっていくだけなのだった。
ご存じのとおり、おれは江戸時代のすべてを否定しているので、おれはこういう言い方をする、「将軍様が偉くて、ご威光に満ちており、鎖国していて、将軍家に歯向かったり外国に色気を出したら即刻処刑なのだから、要するに今の北朝鮮と同じだ、北朝鮮の役人がサムライで市民が平民だ」、そして鎖国をやめたわれわれにとって「切腹」とやらが今やまったく現実的なものには思われないように、おれにとっては「マンガチックイメージ」というのもまったく現実的なものには思われない、つまりおれが日々周囲に目撃しているマンガチックイメージのやりとりは、毎日目の前でサムライの切腹が繰り広げられているぐらい「わ、わけがわからん」という感覚だ/けれども切腹がそうであるように、当人たちにとってはそれはリアルガチであり生のすべてを賭するだけの価値があるのだ。
おれはおじいさんではないので、マンガについて理解がないわけではない、それどころかマンガといえばむしろおれの世代がドンピシャの世代ではないのかという気がする、ドラゴンボールやらジョジョやらスラムダンクやらはおれの世代のマンガだし、テレビでは毎週「ドラえもん」や「ルパン三世」がやっていたし、ドラクエやファイナルファンタジーもおれの世代にドンピシャのものだ、「ときメモ」のようなギャルゲーの隆盛もおれが十代のころに起こっている、何であればおれは中学のときに知人がやっていた「コミケ」に駆り出されたこともあるのだ、おれは現場を見て「おれには趣味がキツすぎて無理っす」と一回限りで遠慮申し上げたのだが/このとおりおれはマンガそのものに対しては世代として当然の理解がある、ただおれの感覚としては、マンガに深入りするということと、自分のふるまいが「マンガチックイメージのトレース」になるということは、まったくつながりがないように思う、つまりおれにとってはマンガは "激アツなマンガ" だが、現代の人にとってはそうではなく、マンガが "現実" なのだと思う、なぜなかなか誰も「マンガが現実っすよ」とは言い出さないのだろう。

確かに現代人のやりとりは、マンガに置き換えてもピッタリ価値が変わらない。

そりゃ全員がマンガチックイメージをなぞっているだけなのだから、当たり前といえば当たり前なのだが、このことは改めて視認すると、なかなか鮮やかにショッキングな事実だと思う、たとえば大学生のグループが、現代的青春の感じで街中を歩いていたとして、彼ら各人の体験および彼らの視ている光景というのは、数ページのマンガ絵と変わらないのだ、だとするとわざわざ自分の生身で体験するのは単純にコストパフォーマンスとして不利すぎるだろう。
現代人は、たとえばギャルアニメやイケメンソシャゲで恋愛を満たしているわけではなくて、生身で恋愛に触れたとしても、「けっきょくマンガじゃん」としかならないのだ、だからいいかげん馬鹿馬鹿しくて、合理的・正常な感覚として、マンガで万事を済ませていると言える、キラキラ系のマンガを生身体験しにいっている人は背後ですさまじいコストを消費しているだろう/今さらマンガを捨てたとして、リアルなんてどこにもなく、実際に生身に体験されるのも就職と借金の「リアル系マンガ」でしかないのだ、だとしたら確かにわざわざそんな疲れてダメージを受けるようなことをする理由がない、<<生身でもマンガしか体験できない>>というのは改めて真新しく、よくよく見ればすでにわれわれの行く先を完全にふさぎ切っている。
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