☆いい女☆で行こう!

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祈りはおれの意思、祝福は天の意思
眠時間を確保したいのでササッとテキトーに書く。
おれぐらい偉大なモンになると、祈ると祝福があるわけだが、「祈ると祝福があるなんてホントですか」という疑問については、「おれにおいてはホントだけどお前の場合はダメだろうなあ」と投げやりに言っておこう/多くの人にとって「祈っても祝福なんてないのさ」というほうが都合がいいというのは奇妙なことだ、まあ当人がそれでいいならそれでいいとしか言いようがないけれども。
おれの場合は祈るとただちに祝福があるのだが、もっとはっきり言えば祈らなくても祝福があるのだ、実際にはおれが捉えているところの祈りというのは一般的にイメージされているものとはまったく違う、おれは平気でどこの境内でもタバコをスパスパ吸ってやるだろう/おれは実際には祈るという行為やその自覚はあまりなく、たいていの場合「これけっきょく祝福そのものでしか無理なやつですやん」というものに向き合うときに自動的に祈っている "らしい" だけだ。
おれが何を言いたいかというと、「なぜ祈ると祝福があるのか」ということについて、まずは「お前が祈ってもムリだと思うがな」と超絶念押しした上で、なぜ祈ると祝福があるのかについては「そりゃ天の意思があるんだから当たり前っつーかしゃーないだろ」と答えたい/ついでになぜ天の意思がそのようであるかは天に訊いてくれ、天の意思をおれに訊くというようなわけのわからんことを発想しないように。

祈るのは人の意思というかおれの意思だが、祝福を注ぐのは天の意思だ、天の意思はアホの民草どもに憐れみや慈悲を常に向けてくださって愛してくださっているそうだから、その憐れみや慈悲が愛が結果的に「祝福」という形で注がれるのだろう/なので超厳密には、必ずしもおれの祈りだけに呼応して祝福が注がれるわけではないだろう、中には一方的に祝福が注がれる場合もあるはすだ、そのケースバイケースはどういう理由なのか、もちろんおれに訊かれてもおれは知らない。
おれの知っていることは、先ほどから言っているように「天の意思があるからなあ」ということだけだ、これは天に意思があるという思考実験をしているのではなくて、それが「ある」しそれを「使っている」ということをおれは話している、まあこのあたりはおれの睡眠時間確保のためにテキトーにぼやかして話しておこう。
天の意思は基本的に「祝福」であって、人がやったらダメなことでも、天がやったら祝福がくっついてくるのでOKというか感動ということがよくある、けっきょくのところ「なぜかこの人が唄うと感動する」「こいつが唄ってもイマイチ何も起こらん」という差があるのはこのせいだ、本当に起こっているのは感動ではなく祝福であって、祝福が人を助けるというよりは、祝福という現象があるということそのものが栄光であり人の魂を満たすものだ、人はけっきょく人自身をムッチムチに肥やしたところで何らの栄光も満足も覚えないものだ。
肝腎なことはけっきょく祝福なしではどうしようもないし、もっと言うなら祝福それじたいが肝腎なことなので、あまり人の事情や用事は本質ではないのだ、人がやったらダメなものでも天がやったら祝福それじたいがOK/で、おれは「祈る」なんてことは実際にはわざとらしくやったりすることはゼロなので、じゃあ何をやっているかというと、ぶっちゃけ天の意思を直接行使しているのだ、天の意思を直接行使するとそれはたいてい祝福なので(ごくまれに邪悪を打ち倒す怒りの雷が向こうに刺さる場合もあるが)、天の意思をダイレクト行使するほうがそりゃ手っ取り早い、そしてそれをダイレクト行使しているということは、おれの知らないところでおれは祈っているのだろう、そうして「天の意思があるんだから、それをダイレクト行使すりゃいいでしょ」と視えて使っていることじたいが祈りになっているのかもしれない。

天の意思をおれが使って何が悪い。

天の意思はおれの意思ではなくて、天の意思は天の意思だ、天の意思は天のものだが、その天のものをおれが使ってはいけないという理由はまったくない、公共施設に置かれている消火器はいざというときの防災用具であって、それはおれのものではないが、必要なときにはおれが使ってもいいのだろう、防災用具が用意されているのはおれの意思ではなく誰かの意思だが、その意思をおれが行使することには何の問題もない、役所の補助金制度は行政の意思だが行政の意思を市民たるおれが行使して何の問題もない、おれが行使すりゃ行政の意思がそこに現れて補助金がズドーンよ、そりゃシステム上当たり前じゃないか。
最近おれが知ったことは、なぜか「祈り」というのは輪郭があいまいになるのに対し、「祝福」というのは輪郭がハッキリ・クッキリしているということだ、これがなぜなのかはさっぱりわからない(わかる必要もあるめえ)/祈りは下から上へ人の意思だが、祝福は上から下へ天の意思だ、そしておれが祈るなんてことは誰がどう見ても「どうでもいいこと」なので、要は上から下へ天の意思・祝福がズドーンと降り注げばいいのだ、上から下へ天の祝福意思がズドーンと下りてくれば、その意思はたいていわれわれ「アホ民草」のアホっぷり限界をそれでも愛してくれるという憐れみと慈悲に満ちているものだ、それはいつもつくづく「人には無理だよなあ」と思わされる性質のものだ。
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