☆いい女☆で行こう!

   〜オトコ視点からの、恋愛の知恵ノート。 Copyright 2007 Quali,
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あいまいな祈りとはっきりとした祝福
んのこっちゃわからない話が続く/それはまあ、お前らみたいなモンに理解できるよーな話は元から値打ちが低いのである、お前らの知性が捉えられる限界は「シーチキンはウマい」程度だと心得よ。
人はカミサマではないので、カミサマと同じことはできない、つまりどういったことができないかというと、「砂浜と山頂に同時に立つ」というようなことができない、そんな量子的であいまいなことはできないので、われわれはそれが可能なカミサマに対して「祈る」ということになる、よって「祈る」という行為は常に量子的であいまいになる。
祈るというのはそうしてカミサマに向けるものなので量子的であいまいなのだが、カミサマから人に向けられるもの、つまり「祝福」は違う、祝福はあいまいの反対なので、「はっきり」した形で現れる、このことは説明がしづらいが、つまり砂浜に行くのと山頂に行くのなら、砂浜に行くのが絶対的に正しく肯定され、また山頂に行くのも絶対的に正しく肯定される。
この、人の「限界」と呼ぶべきもの、つまり人は限定的でしかあれないということ、および「限定されたそれぞれを比較して、相対的に正しいことしか為しえない」ということに対し、それを絶対的なものに作り替えてくれるのが人ならざる偉大なものによる「祝福」だ、それは古代から人々が「なんなんだこれは」と首をかしげてきたその現象のことを今もなお祝福と呼んでいるにすぎない/ふつうの人は、「カレーを食うかラーメンを食うか」で迷ったとき、そのときの気分に合わせて相対的に正しいほうを食うしかないのだが、おれの場合なぜかどちらを選んで食ってもそれが絶対的に正しく肯定されて何か完璧にすばらしいことになるのだ、こんなことはおれとメシを食いに行ったことがある奴なら全員知っているだろう、それについてずっと「なんなんだこれは」と首をかしげてきたはずだ。

ふつう、最善の旅行先を選ぶとすれば、さまざまな情報や自分の好みによって、入念に検討し、自分の旅行先ベスト100をランキングし、その一位に行くのが最善の旅行先になる、ただしそれは相対的に肯定される旅行先であって絶対的な肯定があるわけではない。
ところがおれの場合、あえてそのランキングから99位を選んでも、その旅行が絶対的に正しく肯定されるのだ、ナゾの輝かしさに満ちると言っていいだろう、そんなことはもう何人もが「なんなんだこれは」と首をかしげてきた、多くの人は間近で「祝福があるのだからしゃーない」と絶望的にそれを視認してきたはず/旅行先なんぞは、相対的な一位ベストを為してきたってあまり意味はないのだ、一千万円かけてヨーロッパを周遊してシャトーブリアンを食いまくるよりおれがレンタカーで箱根に日帰りする旅行してドライブスルーでマックナゲットをバカ食いするほうが輝かしい値打ちがある、これは凡人は旅行するなと言っているのではなく、もっと別のことがあるのに気づけと言っているだけだ。
祈りはあいまいで量子的だが、祝福ははっきりとしてナゾの絶対性がある、ここでカルト宗教であれ一般的な宗教であれ、祈りと信仰を「はっきりさせる」というのは、原理的に誤っているので、マッドでヤバい人々アンド空間になっていくのだ、ネタが宗教なのだから原理的に誤ればがっつり呪われるに決まっている/人はアホで「限界」があるので、人としてはたとえばカミサマのことも「存在する・しない」という限界・相対的にしか捉えられないのだ、それをはっきり「存在するッ」と言い切ろうとするアホの発想により、コテコテに呪われたマッド集団と空間が生成されていく、ここでは冗談みたいに言っているがその実物は割とマジであってすげえシャレにならないブツに仕上がるものだ。
マッドな人々とその空間は、カミサマを「はっきり」させようとし、祈ることを「はっきり」させようとして、ゴリゴリに呪いを受け、そして肝腎の祝福については「あいまい」でごまかそうとする、当然ながらまるきり逆転しているのだ、まあきょうび宗教施設に深入りしようなんて人はそうそういないと思うので宗教うんぬんなんて考えなくていいと思うが/それより多くの人に実際的なこと、「センス」というのをあいまいでごまかしにしないほうがいい、自分の信じるものはあいまいでも、実際に現れてくるセンスははっきりしていないといけないのだ、逆転していると呪われるのでよくない。

芸術家が芸術を「はっきり」言い張りつつ、作品のセンスは「あいまい」にごまかす、それで呪われていくというのが定番のパターンだ。

その点おれなんか、センスははっきりしている、「お前らの知性の限界は "シーチキンはウマい" だ」とはっきり示している、それでおれが芸術家なのか何なのかについては、まあおれ自身でもよくわからない、おれはただ常におれを掴んで放さない面白さとうつくしさのことを話し続けているだけであって、それが何なのかはおれも知らんという具合だ、実際おれの書き話しだけははっきりしているのだからいいじゃないか、おれはおれに懐いてくる献身的な美女があるかぎりはこの世界を肯定してやろうと思っている(はっきりしている)。
祈りはあいまいで量子的だが、祝福ははっきりしている、ちゃんとお前らの知性の限界でも足しになるように偉大なるおれさまがナイスな書き話しをしてやっているのだ、「シーチキンはウマい」でいいだろう、あなたが一言「シーチキンはウマい」と言うより、おれが一言「シーチキンはウマい」と言うほうが、「なんなんだこれは」が起こってしまうだろうという、ただそれだけの話をしている/祝福はそれを相対的でなくし絶対的に肯定する、相対的でなくはっきりと「シーチキンはウマい」が現成する。
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