☆いい女☆で行こう!

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ポイズン以外の何かの「作用」
れが何かを教えるということはない、おれは教育者じゃないし、もし教育者であっても何かを教えるなんてことはなかっただろう。
おれが何かをもたらすとか与えるとかいうことも、あるような無いような、もしあるとしてもそれはおれが与えているわけではない、もともとこの世界にある現象だ、だからおれが何かをする必要はまったくない/誰にでも触れられるこの世界の現象がある。
誰でもポイズンが作用することは知っているだろう、甘いミュージックや映像を入れられるとハイになるんだろう、そんなポイズンはアヘン以来誰でも知っている、ただポイズン以外にある何かの「作用」、これについては誰もが知っているわけではないという、ただそれだけのことだ。
ポイズン以外の何かの「作用」、それは一種の、超越的な光だとやはり言ってよい、「超越的なのだからどうしようもないだろ」というやつだ、超越的だからナンクセがつけられないということ、ナンクセを飛び越えて存在しているのだからどうしようもない。

ほとんどの場合それは「言葉」となる、言葉が地位を下落させるとただの言語となり呪詛となるが、言葉が本来の超越的地位を回復すれば、それはナンクセのつけようがない「何か」の作用そのものになる。
われわれは「現実」ということにこだわっているが、何が現実にあり何が現実にないかということについて、言葉の地位は超越してしまっているのだから、ナンクセはつけようがない、たとえば「おれには翼がある」と言ってみたところで、「現実にはないじゃないか」とナンクセをつけようとも、「現実にある必要はまったくない」と言われるとどうしようもない、「現実なんてチンタラしたものに都合をあわせるようなヒマや事情はどこにもない」。
ポイズンや空想や、妄想の万能感などというのは、しょせん現実にこだわっている者の自己手当でしかない、現実が上位にあるからその下部でポイズンを生成してごまかした空想に耽るのだろう/現実はしょせん二義的なものに過ぎず一義的なものは超越の地位にある、われわれがこだわっているという理由だけで現実が一義的であると保証されるわけではないのだから。
現実というくだらない壁を倒すのに、多くはポイズンという逃避を決め込むしかないのだけれども、それで本当に現実が倒せるわけではなし、むなしいことだ、そしてやむをえないことだ/現実というやつが、さも威張っているようで、実は超越的地位から見ればただの「言いなり」でしかないということ、よもや気づかないだろう、ただおれは遊ぶことに貪欲で、第二義や第三義のネタで遊ぶ気にはなれないのだ、おれにとって遊ぶということは最高の地位にあり続けねばならない。

安息日以外の日は存在しない。

安息日というものが、多くは "現実日" と呼ぶべきものとのバランサーとして認識されているのは、実に迷妄であり侮辱だ、おれが話しているのは安息日のことであって定休日のことじゃない。
ポイズン以外の何かの「作用」があり、その作用をいくらでもブッコ抜いてこられるのだから、もうポイズンの作用なんて要らないだろう、おれが何かを教えるということはないし、おれが何かを与えるということもない、そんなもののすべてもやはり要らないからだ、毒が要らないなら解毒も要らないだろう、安息日のおれと共にあれとしかおれは言っていない、それは現実的に何もしないということではなく、ただ完璧になるものの話だけをおれはしている。
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